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りんどう

この先に進む前に今一度、上のnoteを読んでおいてもらえるとより一層
伝わりやすいのではないかと思います。
ここからは少し長く、重いものになるかもしれないので、苦しくなったら何度も立ち止まりながら読んでいくことをお勧めします。


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誰かが何かを思い出すキッカケなんて曖昧なもので、覚えているかどうかなんて、そのキッカケがどれだけあるかないかじゃないのかと思っている。人が常時取り出せる記憶なんて本当に微量で、アルバムや写真、思い入れのあるモノに触れるとそれがキッカケになって記憶がよみがえるのだと、僕は思っている。

だから僕は今夜もこうして言語化し、文章としてここに残すのだろうし「記念」に敏感で、「写真」を取りたがるのだろう。

人よりも少しだけ言葉が好きなのだと自覚している。中でも、誰かの手書き文字になると、色んな背景を考えてしまって余計に情緒豊かになる。
誰かの想いが詰まった文章を一つ一つ、丁寧に読んでいく時間がたまらなく好きなのだ。


これは、「僕と祖母の22年の物語」の続きの物語。


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この街は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う。
遊びまわった山は切り開かれ、車の往来が激しくなり、祖母がよく連れて行ってくれた公園は閑散としている。あの頃と変わらぬものが年々減ってゆくのに、なぜか、この街はきれいだ。
深い緑に覆われた山々を越え、車窓の外には白銀に染まった海が飛び込んでくる。JR和歌山駅からさらに南へと1時間。何度も乗ったはずのこの電車が変わらず僕の一番好きな電車。
山と海だけのこの街は、相変わらずきれいだ。


「秘密やで?」

秘密が好きだった祖母。優しくて決して涙を見せなかった祖母。僕との22年の物語に本当の終わりを告げ、数日前に祖母は他界した。


JR紀伊田辺駅で降り、まっすぐタクシーへと乗り込む。9月に入ったのに気温は変わらずひどく蒸し暑い。

祖母の葬儀を明日に控え、早めに帰宅を決めたのは本当に数多くの準備を父と母の二人で行うには多すぎるからだった。正直、受け止めきれない現実がその時の僕の目の前には存在していて、引き返すこともできず、歩みを早めることもできないどっちつかずの自分に苛立っていた。

それに、祖母の葬儀のためにと久しぶりに帰ってきたこの街は憎いくらいに、きれいで、それがなぜか僕の苛立ちを加速させた。


近所の会館でタクシーから降り、1年ぶりの家までの道のりを踏みしめる。
ランニングをサボって座っていた石のベンチ、何度もボールを打ち込んでなくした畑、枝と落ち葉を積み上げて作った木の滑り台、なにもかもなくなってしまった道にたくさんの想い出を馳せる。

自転車で田んぼに飛び込んで飛距離を競ったことも、畑に隠れてした鬼ごっこも、祖母に手を握られ歩いたこの道も、今更思い出してしまう自分がどうしても許せない。



その手はすっかり骨ばっていた。

僕の手を何度も握ってくれて、決して離れないようにと掴んでくれる手を「頼もしい」とするのなら、その手はいつだって子供の僕の手をそっと優しく掴んでくれていた。

若い時から農家の家業を継ぎ、家事の全般を一人でこなしてきたその手は、決して「綺麗だ」とは言えなかったけれど、それでも、大好きな手だった。

小さい頃の思い出を事細かに覚えていて、それを思い出して余韻に浸る。なんて器用なことは僕にはできなかったけれど、祖母と交わしたいくつもの約束や掴んだ手の感触、僕の名前を呼ぶ優しい声を、ゆっくりと思い出しては零れ落ちそうになる涙を堪える。

寂しさのせいでも、後悔のせいでも、目に埃が入ったからなのか、なぜか涙は際限なく流れそうだったけれど、まだ泣いていない母の姿を見て涙を堪えた。


僕が1人暮らしを始めた頃に届いた祖母からの手紙。期限もタイミングもなく、ただ月日とともに重なり合っていく手紙の束が嬉しかった記憶の糸を懸命に手繰り寄せて想いを馳せる。

本当に、大好きな人だった。

大学生になった頃、祖母からの手紙には仕送りが入っていて「秘密やで?」といつもの祖母の言葉が添えられていた。
僕はそのお金を江ノ島までのバス代に充て、人生で初めての旅はその時に始まった。

はじめて訪れる横浜を横目に江ノ島行きのバスへと乗り込み、早朝には江ノ島へと足を踏み入れていて、「なにか祖母に送ってあげよう」とか柄にもないことを思って絵葉書を買い、その場で認めて祖母の元へと送った。

どれだけ素直になれなくても、手紙の中でだけは「僕」でいれる気がしていて、等身大の気持ちをそのまま書くことができた。


「おばあちゃん、入院することになったから」

祖母が入院することになったのは、だいたい一年前くらいで、僕が江ノ島から送った僕の絵葉書に返事がないことなんてこの頃はすっかり忘れてしまっていた。

祖母が入院することになった報せをLINEで受けた頃、僕は相変わらず素直になることも変わることもできなくて、なれない言い訳ばかりがうまくなっていってた。祖母は脳梗塞と認知症だった。

9月も終わりになった頃、父からの「そろそろ一回帰ってこい」の一言で帰省したことをキッカケに祖母に会った。


見るからに、祖母はすっかりやせ細っていて、「りゅうやで」と自分の名前を口にしても「わからない」と言わんばかりに首を振る祖母の姿があった。
そうなってしまうことはわかっていたはずなのに、まだ大丈夫だろうとどこかで勘違いしていた自分がひどく惨めに思えた。

「秘密やで?」と祖母が悪そうな顔をして言うあの声も、僕の名前を優しいく呼ぶあの声も、記憶にあるばかりで塗替えられることはない。そうなることを知っていた、わかっていたはずなのに、何もできていないことばかりを今はただただ後悔した。正直、逃げてただけだった。


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右側に田んぼが見えてきた。何面もある田んぼは幼稚園の頃の僕たち兄妹にとっては格好の遊び場で、毎日真っ暗になるまで泥だらけになって遊んだ。迎えは祖母がついてきてくれる乳母車だった。
畑と田んぼと、緑に囲まれた道を真っすぐ進むと祖母の家があった。久しぶりに訪れる祖母の家の周りには人だかりができていて、彼らの隙間を縫うように家へと入っていった。

「おばあちゃんの顔見てあげて」

言われるままに居間へとあがり、祖母のいる場所へと向かう。
すっかり泣いてしまっている妹を慰めながら先に祖母の顔を覆う布を取り、すっかり変わり果てた祖母の顔を眺めた。

もう、一緒に泣くことも、笑うこともできない目の前の現実はすっかり僕の心をかき乱してしまって、不思議と涙はでなかった。
「ああ、きっと僕はもう誰かのために泣いてやることもできないのだろう」なんて考える。


その日は日が沈む頃には祖母の家を後にし、実家に帰ってすぐに缶ビールを冷蔵庫から取りだし、開けた。
そういえば、祖母と飲み交わすことも結局叶えられなかった。ことを今更思い出す。自分が醜く、弱く、惨めで、苦しかった。



「お兄ちゃん、これから来れる?」

祖母の家にいる妹からLINEがきたのは僕が3本目のビールに手をかけたくらいの時だった。正直、行くのが怖くて、行きたくなかったけれどそんなLINEをしてくるのが初めてだったから気になって向かった。

「これわかる?」

着いてすぐに渡された錆びれた箱は見覚えがあって、「秘密です」と決して見せてくれなかった祖母の宝物入れだった。
蓋を開けると中から僕がこれまで送った何通もの手紙が出てきて、一つ一つすべてに「わたしのたからもの」と書かれていて、中にはあの江ノ島の絵葉書も入っていた。

「これも」と妹が渡してきた手紙を受け取って僕はその場で泣き崩れた。

それは、僕の送った江ノ島からの絵葉書に対する手紙で、きっと送れなくて帰ってきたのか、送り忘れてしまったのか、それは一枚だけ別で大切にしまわれていた。


江ノ島、楽しそうですね。
たまには息抜きも必要です。
最近、少しでもりゅうくんたちに楽させてあげようと思って
ホテルではたらき始めた。

そんな内容だった手紙を抱きかかえながら、横たわる祖母の傍で泣き続けた。誰かに見られてるとか、妹が見ているからとか、全部忘れてしまったみたいに、その場で泣き続けた。

最後には、「いつものやつ送ります。秘密やで?」と書かれてあって、大声を出して泣いた。


祖母からの最後の手紙は、
祖母の死後に僕のもとに届いた。
祖母は死んだのだと、思い知らされた瞬間だった。


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祖母の棺には僕が書いた手紙を入れさせてもらった。
祖母からの最後の手紙は最後まで悩んだけれど、棺には入れずに僕が持って帰ることにした。二度と忘れてしまわないように手元に置いておきたかった。

祖母は、享年70歳だった。入院してから多くの病と闘い続け、1年近く懸命に生きた。本当に、強い人だった。
そんな祖母と仲の良かった和尚が「家族に迷惑をかけないように、ゆっくりとゆっくりと時間をかけてくれたんですよ」と言うのを聞いて、泣いた。

葬儀に参列した人たちから「りゅうくんか?」と聞かれ、そうですと答えると「おばあちゃんと会うたびにりゅうくんと手紙をやり取りしてるんだ」と自慢されていたことを聞いて、また泣いた。

祖母から届く手紙を、僕は大切にできていただろうか。それが、悔しくて、情けなくて、それでも下を向くのは違うと思って、結局ただの一度も下を向かないまま葬儀を終えた。泣きすぎて涙は枯れていた。


僕は、自分のことを「優しい人間」だと思っていた。周りがそうだと言うから、僕もそうだと思っていた。

喜怒哀楽が激しく、よく笑い、よく哀しむ、涙こそ少なかったものの
僕はきっと優しい人間なのだろうと思っていた。

大切な人のために今を捨てられなかった自分を
くだらないプライドのために会いに来れなかった自分を、ありがとうもごめんねも恥ずかしくて言えなかった自分のことを、僕は「優しい人間」だと思っていた。


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大切なものや今いる仲間のことを思い返したとき
伝え忘れたことの多さに気付く。

僕たちは、もう誰かのせいにしている場合ではないのだなと気づく。大切な人にありがとうを伝え、守りたいものを守り、叶えたいものを叶えるために、抗い、戦う。



流れる時の早さに
身体を委ね眺めてる
代わりのない物語
りんどうの花のように

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