見出し画像

『自己紹介』僕という人

元々、書き残していた自己紹介のnoteに、少しだけ今の話を書き加えて今回の公開に至りました。正直、本当に、今、書きたいところは『最後に』の部分なので時間のない方はすっ飛ばしてもいいかもしれません。
これまでの僕のことを知りたいような物好きな方は全て読んでみてください。

『りゅう』の自己紹介

2018年、2月4日に初めてのnoteを出してからちょうど5年目を迎えた。
月日だけ聞くと随分昔に感じても、つい先日のことのようにあの頃の感情を手元に戻せるくらい新鮮なあの瞬間は色褪せない。

noteのことを書くのなら、きっと、あの頃の話が重要で。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


これまで

和歌山県という海と山に囲まれた関西の下の方で生まれました。
自然に囲まれて育ちました。とか言えれば聞こえはいいのですが、幼少期はとにかく自分の部屋に引きこもってたので自然で遊んだ覚えすら微妙です。

癇癪持ちの父とヒステリックな母。2日に1度のペースで父の怒号が家の中に響き、そのうち3回に1回は母の絶叫と共に物が頭上を飛ぶような環境で育ちました。今更、あの頃のことを聞かれても何も感情が湧かないくらいにはもう何も思ってません。

とにかく争いに巻き込まれないために家では気配を消し、自室に篭るか、外で遊ぶかくらいしか思いつかなくて、自室の窓からひたすら友達の遊ぶ姿を描いたり、本を読んだりするか、みたいな感じでした。


詳しいことはこちらに載せてます。


言葉

元々、本は読んでたのですが、大学時代、当時バイト先で知り合った子が本を好きだったこともあって再度ハマりました。誰かの好きなものに一緒に夢中になれるくらいの素直さは持ち合わせてるのかもしれません。

本当に幅広く色々な本を読んでいる中で抱いたのが『こんな表現してみたい』みたいな曖昧な感情でした。とはいえ、それくらい曖昧な感情の方が時には力を発揮したりしてくれて、気づけば小説を自分で描き始めてました。

6年前にTwitterのDMで知り合った子とリレー形式で小説を1冊書きました。15万字の長編になったものは『小説家になろう』というサイトにて公開され、掲載期間中には高評価が頂けたりもして、始めたばかりの僕にとっては言葉にハマるだけの十分なキッカケでした。

その後、自身にてブログ開設を通して『g.o.a.t』という当時のブログサイトにて記事を書いたりし始めました。ちょうど5年前に『note』に転載したことをキッカケにnoteの表現方法のシンプルさにハマってここに書き続けてます。(気づけばgoatは終わってました、あれが青春だった)


*当時の転載した記事です。物好きな方は読んでみてください。


転機

25年。随分と長く生きてきた気もしますが、その一方で本当にあっという間だったなと感じる面もあります。

特に胸を張れるような生き方をしてこれたわけでもなく、いまだに笑い話にすらならないような失敗ばかりを繰り返してきました。

そんな中にも、忘れもしないような転機は人知れず存在していて、思い返せば本当に些細なことかも知れませんが、今になってみると、まさにあの瞬間が大きな転機だったかなと思う瞬間って誰にも存在します。


僕にとっての最大の転機は2019年。
自身の悩みを友人に打ち明けたことでした。

打ち明けたことをキッカケに自分の中で何か一つ枠がなくなった気がして、その当時書いたnoteをキッカケに、様々な相談をたくさんの方から頂くようになりました。



発信と想い

自身の悩みを懸命に打ち明けていたのと同じ頃、当時参加していたボランティア活動にて機会があり、いわき市で起こった大雨による災害の現場に災害発生当日から訪れることがありました。

それからの3週間は本当に壮絶で、初めて現場に到着した時は『自然の恐怖』を目の前に叩きつけられたような感覚でした。

大雨による災害当日

それまでボランティアって聞くと、一種の『偽善』みたいな認識をしてたのですが、当事者になると考えすら吹き飛んで無我夢中でできることを必死に探してました。(よく知りもせず、考えだけ述べてたあの頃の自分は今でも本当に恥ずかしい思い出)

すぐ帰る予定があったのですが急遽延期。もちろん泊まる場所もないので最初は車中泊をしながらひたすら災害現場の最前線にて街を駆け回っていて、ボランティア施設の立ち上げから街の復興まで、ずっと残りました。

災害発生から1週間。街に突如現れた家具の山


思い出の物を『ごみ』と呼んでいいのか
とても考えさせられた光景

最前線で、一緒に復興活動をしてきたからこそ今でも現地には思い出があり、当時繋がった方々とはたまにFacebookにて連絡をとっています。

そんな当時の想い出を発信した際、とても多くの方からSNSにて反応があり、一時期ラジオに出演して現地の様子を生で伝えるようなこともしてました。(緊張しすぎて頭真っ白。噛みまくってたので黒歴史)

*後日、noteにてその時の話を書いた時のもの。

思い出の一枚。
ここは元々、子供たちの遊んでた公園。


自分の話を描く中で

これまで、月日にすれば5年ですが、随分と数多くの自分の話をnoteや自身のかつての記事等にて書かせていただきました。

それでも、きちんと描けているもので10本にしか満たないのは、『自分を晒すことへの恐れ』が大きく関係しているとは想いますが、まあ、頑張ってる方だと褒めてください。

元々は旅の発信やエッセイテイストの言葉選びが目立つ、自身の考えを垂れ流すようなnoteを発信してきたのですが、ある時から、忘れられないような思い出や出来事を書くようになりました。


それは、祖母への自身の贖罪。
認知症になり、僕のことすら忘れてしまった祖母に対して伝えきれなかった本音や想い出を、少しでもどうにかしたくて、『ごめん』という一心で書き続けました。


忘れられない出来事や、これまでの想い出など、自身に纏わることは同一マガジンにて一括で管理しています。誰かとの物語に溢れた僕のnoteを旅する中での一筋の光だとでも思ってください。

道標に残しておきます。



あなたの知らない街の誰かの物語

自身にて発信を続けていく中で、ある出来事をキッカケにnoteを描くことをやめてしまうことがありました。文字通り『やめる』って感じであの期間はnoteのページどころかアプリサイトすら無くしてました。

それでも、再び描くキッカケになったのは友人との話。
「大好きだったけど言えなかったことが多すぎる」そう言って、僕に悩みを打ち明けてくれた友人の恋を僕なりに応援したくて書き始めたのがこのマガジンでした。


2駅でサッと読み終えれるくらいの短さと、眠れなくなってしまうほどの苦しさの両立。をめざして、3000字程度に収めることを目標にこれまで10本ほど書いてきました。

このマガジンに入っているものは全て、僕の友人や、DM等にて頂いた誰かの『伝えられなかった言葉』を届けるためだけに書いています。
なので、あなたの知らない、誰かの実話だと理解した上で、読んでくれますと幸いです。


*引き続き、伝えられなかった言葉を代筆するような役割を続けていければと思っております。
詳細気になる方はメッセージくださいませ。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


最後に

note。と言わずに、言葉や絵、音楽などを通して自分を表現するようになって23年くらい経ったように思う。

始まりは家の窓から見えていた景色を暇だからと書いたことだった。気づいた時には『表現方法』として手段になっていた、絵を描くことはカタチを変えて、今の言葉へと変化していった。そういえば、人生で初めてかけたCDは『Linkin Park - Numb』だった。

あの頃から姿を変えようと、僕にとって音楽も、絵も、言葉も、全て同じ表現方法で。『伝えたい』と誰かが必死に願ったものの一部でしかない。


ただ、伝えたいと願っていたその時々の『感情』は、適切に伝わる方法を求めるうちに、伝わりづらくなってしまって、自分が本当に届けたいことや思いは、きっと1割も届いてはいない。

僕のnoteに『色』は要らないと思っていた時期がある。僕の個性は要らない、誰が書いているのかも知らずに、ただ、ここにある『言葉』を観てほしい。そう思っていた。

そうして無くなっていった僕の『色』を、僕自身も伝え方がわからなくなった。そんなふうに思い始めたのがここ最近のこと。


このnoteが、僕の描く言葉が、どこまで届くのか。
何になり、何を生み出していくのか、ただ、淡々と誰かの過去を、後悔を、残している毎日に違和感を覚えるようになった。

つくりものだらけの、この僕のnoteの世界に『色』をつけてみようと思う。
キャンバスは灰色。お陰様で、長い旅路の中で、パレットには数百色の色が並ぶようになった。

きっとここからが、第二章。

僕は、この言葉を、僕の、色で表現する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?