見出し画像

哲学することの意味について。ついでに自己紹介。

こんにちは。僕は龍之介。さえない小説家志望の大学生(執筆時点では高校三年生)である。趣味は物書き、読書、作曲、作詞。イラストはへたくそだが、絵を見に行くのは好きである。何より、自分の中の世界をじっと眺めているのが好きだ。
俗世的な、つまり外見的な趣向で行くと、カードゲームで遊ぶのがかなり好きである。Hearthstoneというカードゲームにハマっているが、以前は遊戯王、デュエマなどといったリアルのカードゲームもたしなんでいた。ちなみに、遊戯王は「カラクリ」というデッキタイプがお気に入りだった。それから、喫茶店を巡ったり、古書店に足を運ぶのも好きである。

まぁ、このあたりだろうか。僕について詳しく知りたいもの好きはそう多いものではないと思うので、自己紹介はこの辺にしておこう。

初回のnoteでは、哲学することの意味について考えたいと思う。
僕のことを古くから知っている(といっても、このアカウントを作ったのは去年の春であるから、一年もたっていないのだが)人ならご存じのことであろうとは思うが、僕は哲学的なことを考えるのが好きである。それこそ、物心ついたころから、かなり深い疑問も持っていた。

例えば、

僕が目で見ている世界と、体で触って感じている世界は別物ではないか。体で障った世界は、目で見たものと同じ感覚になるように、体が自分自身をだまして作った世界ではないか

というような疑問である。

小さいころからこんな感じであったため、僕は哲学というものをかなり身近なものと感じている。学校へ通う時間のほとんどを、頭の中のそうしたとりとめもない疑問についての思索で費やしている。

あるとき、僕の親友にこんなことを言われた。

なるほど、確かに君は哲学を志しているらしいが、でもそれは、将来的に役立つものなのかね?

哲学は役立つものだろうか?

そもそも役立つとはどういう意味だろうか。
科学技術は「役立つ」ものである。これらは、人間の生活を豊かにし、物質的な恩恵を多くもたらした。これについて、反論を述べる者はいないだろう。

では、哲学は物質的に我々の生活を豊かにするか?

答えはノーである。たとえプラトンの思想を世界のすべての人間が完璧に理解していたとしても、スマートフォンは発明されなかったであろう。

ここから明らかになるのは、役立つというのが、物質的な豊かさをもたらすという意味ではないという事実である。

ここで、よくある自己啓発書の文言を読んでみよう。

・哲学は私たちがより良く生きるための指針になるもの。
・精神的な豊かさをもたらすもの。
           →哲学は役に立つ!!!

精神的な豊かさをもたらすものが、哲学であるという話である。

だが、個人的にこれは違うような気がしている。というのも、哲学は「役に立つ」わけではないのである。

役立たずの哲学

はっきり言おう。哲学は役立たずだ。哲学を志す身でありながら、このような侮辱的なことをいう僕を許してほしいが、しかし、事実哲学はあまりに役立たない。

だって考えてみてほしい。カントの認識論を知っていたおかげで、自動販売機の下に落ちている貨幣に気付けるだろうか?友人同士の会話で、ソクラテスの問答法をしたらどうだろうか!嫌われるだろう!

つまり、哲学はその他の学問と違って「役に立つ」という視点から考えることは非常に難しいのである。

なぜ哲学をするのか?

しかし、この世界には哲学という学問が存在し、今も哲学者が存在する。権威ある思想家はもてはやされ、多くの人に読まれる本を書く。彼らはみな、哲学をしている。

なぜか? 答えは単純である。

「哲学すること自体に価値があるから」である。

これは僕の個人的な見解だが、哲学は「考える」ものではない。言葉においても、哲学は「する」と繋げるのが自然である。なぜ、「する」のだろうか。考えるではいけないのだろうか。

哲学は、究極的に言えばすべての学問の生みの親である。
タレスだって、「万物の根源は水」とは言ったが、その目的は、この謎に包まれた世界を、「理論的に」解釈しようと試みたことである。神話に頼らず理性的なところで理解しようとした、この解釈の試みこそが、まさに「哲学する」という行為の始まりなのである。

そして、この「解釈する」という行為自体に、人間は価値を置いたのである。

ほかの学問においては、定義とその演繹によって導き出される、あるいは実験から帰納法的に世界を理解しようとされていった中で、哲学だけは、「解釈」を目的に置き続けたのである。

例えば「死」。死は、生物学的に言えば呼吸の停止などと理解されているが、それがどのような仕組みであるということを知っていても、それが何であるかは理解しようがない。それは解釈の問題なのである。文化によって、それらは意味づけがなされる。しかし、文化はその文化圏においてでしか、解釈の意味を持たない。(死が避けられるべきものである文化から、迎え入れられる文化までさまざまである)。

しかし、現代社会においてはそれが特に顕著であるが、宗教という精神的支えが徐々に崩れた世界において、我々は自らが直面する様々な現象に向き合う必要が出てきたのである。向き合い、解釈を持つことを迫られているのである。

そこで、我々は「哲学する」のである。

まとめ

哲学とは「解釈」である。哲学を学問としてとらえ、実用性の点から議論することは意味のないことである。解釈は人それぞれ、国それぞれである。しかし、現象を「解釈しよう」とするこの行為、すなわち「哲学する」行為に、我々は最大限の賛辞を贈るべきなのだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?