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群衆化の恐ろしさ~日本人が不合理で不可解な行動を続ける理由~

 令和5年5月10日。
 街は変わらずマスクに溢れている。実に狂った3年間であった。マスクをしない人や注射をしない人への誹謗中傷、差別、弾圧はすさまじいものがあった。ここにきてようやく弾圧は消えつつあるが、世界で一人負けを続け、もはや後進国に堕ちてしまったことすら気づかない国民は未だにマスクを外そうともしない。ただ自分がしているだけならよかったが、つい最近まで国民が、企業が、国の指針をはるかに上回る無意味な感染対策の強要で人権侵害を行ってきたことは紛れもない事実である。

 何故これほどまでに、数千万あるいは一億近い国民が同じ行動をとったのか。気持ち悪いまでの一体化の原因は何なのか。

 精神科医の私でも、理解に苦しむ現象が多すぎた。医療としての精神科は、個人の精神の病理を扱う。学生時代から医師になってからも通して、「群衆心理」と言うテーマを系統だてて学んだことはない。個人的に興味を持った者でなければ、ほとんどの精神科医は知らないのではないだろうか。
 だが、この異常なまでの国民の暴走は、群衆心理を知らなければ理解できないようである。SNS上でも日本で世界で起きている異常現象を群衆心理の観点から分析する発信を目にするようになり、私も学ぶ意識を持つようになっていった。

 最近、100年ほど前にフランスの社会心理学者が書いた本を読み、非常に興味深かったので、ほんのひと言ふた言を抜き出して紹介しつつ精神科医としての見解を交えながら考察していきたい。

 『群集心理』ギュスターヴ・ル・ボン著 櫻井 成夫 訳 講談社学術文庫
 である。

 興味のある方は実際に読んで頂きたい。やや難解な箇所もあり、ぼんやり読んでいると意味を見失うが、著者はまるで今の日本を観ながら書いたのではないかと思うくらいである。 
 もちろん本著を以て、今回の騒動のてを説明することはできないが、整理し理解するのに相当役に立つと思う。

 群衆の一般的特徴として、ル・ボンは、
意識的個性の消滅ー
 と書いた。

 人間が群衆化すると、『個』としての存在が消える、と言うのである。

 ちなみに、群衆が形成される条件として、物理的・時間的な集結は要しない。また特に人数も決まっていない。数人で、別の場所、別の時間軸にいても、群衆は形成される。今回の騒動においては、テレビを介して数千万の日本人が群衆化した。
 群衆化すると、それぞれの個人が個人である場合には絶対に取らないような野蛮な行動に走る。人間としての思慮はなくなる。知性もなくなるのだ。

 『意識的個性の消滅』の意味を考えるにあたり、まず『個』とはどういう状態であるかを考える必要がある。

 『個』とは、単に数としての1人のことではない。
 この世にその人ただ一人しか存在しなければ、個と言う概念は存在しない。他者が存在して初めて、個が成立する。相対的存在として個が成立するのだ。

 これはどういうことか?

 人間のみならずすべての生命体は外的刺激とそれに対する反応を繰り返して生命を繋いでいる。地球上では、昼と夜の光や温度の変化など様々な環境変化を受けて生体は一定のリズムを刻むし、動物の場合は雌雄間、親子間の反応、捕食関係、群れなど、一瞬たりとも外的刺激がなくなることはない。さらに人間の場合は脳が発達し、言語を用いた高度なコミュニケーションが可能になった。相手の表情を読み、声色を聞き、考え、自分の行動を決定する。その際、感情のみならず心臓の鼓動や呼吸、血圧など、生体は常に変化している。

 全くの個として外界から完全に切り離された状態というのは、原理的にあり得ないのだ。

 そして群衆化である。

 個は消滅する、とル・ボンは書いた。
 あたかも草原をひた走る何百万のヌーの大群のように。
 彼らは食料を求めて大陸を大移動するが、単独行動の場合では決して飛び込まないような大河にも飛び込み何万頭が命を落とす。そこに、恐怖心は存在しない。まして理性や知性もないから、行く手に赤ん坊がいようが、一瞬で踏みつぶして走り去る。

 別の例えとして、大小さまざまな固まりが袋に入っている黒砂糖を考える。そのままだとそれぞれ個別の存在であるが、ひとたび湯に放り込むと「砂糖水」となり、かつて存在した塊は消え失せる。その砂糖水を濁流に流すとどうだろう。あっと言う間に飲み込まれ、濁流と砂糖水の区別すら消え失せ、流れていく。

 圧倒的他者に囲まれると、外界と自己の境界は完全に消えうせ、同一化する。そして個が、かき消されるのだ。

 個が消えるということは恐ろしいことだ。

 さらにル・ボンは、群衆の特徴として

 観念や感情の同一方向への転換

 を挙げている。その結果、人間の集団のそれ自体が、一つの生命体であるかのように振る舞う、と言うのだ。
 
 今回の騒動では、「個」が砂糖水のように液状化して、粘土でもスライムでもいい、得体のしれない塊を形成した数千万の日本人が、一つの生命体であるかのようにマスクの不着用者を攻撃した。
 そこに理性も知性も合理性も全く存在しない。
 
 個々の存在としての知能は消え、人間の本能としての感情だけがむき出しになる。何故なら知能は個体差が非常に大きいが、本能としての情欲や感情は、全ての人間において大差がないからだ。
 こうして人間の個々の理性は消滅し、人間が根源的に備えている残虐性がむき出しになり暴走する。

 暴走を始めた群衆を止めるすべはない。理性や合理性を説きながら行く手に立ちはだかっても瞬時に踏みつぶされ、群衆は走り抜けるだけであり、何かを踏み潰した自覚すら持たない。

 そう、これほどまでに群衆は恐ろしいのだ。
 恐ろしいのはウイルスではない。群衆なのだ。

 だが、歴史が証明している。例えばその国の、100%の『個』が群衆化することはない。今回の騒動でも群衆化しなかった日本人は1割にも満たないが、確かに存在した。

 では、群衆に飲まれなかった人間は、どうすればいいのか。

 とにかくまず、身を守ることだ。
 人間の個がいかに脆弱なものであるかを知り、油断すれば自らも飲まれかねないことを知り、飲まれないようにすることだ。
 飲まれていない者同士、繋がることだ。
 今は聞き入れられずとも、静かに意見を発し続けることだ。

 砂糖水がやがて熱され再結晶し、ボロボロと砂糖の固まりが再び出現するように、群衆はいずれ外側から崩壊し、個が戻ってくる。
 これもまた、歴史が証明しているのだ。
 集まり、静かに発信し、待とう。
 
~おわり~

#創作大賞2023


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