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【 Tinymemory 9 】

君が旅立ったのは
冷たい小雨が降る日だった

しばらく咳が続いていた
病院に連れて行こうとしても
彼女はゆり椅子にもたれたまま
動こうとはしなかった
うさぎのぬいぐるみを抱いて
小さな女の子の写真を
その胸に包み込むようにして
日に日に その姿は
小さくなっていった

全内臓機能低下から
数年経っていたが
季節の変わり目や
気温の変化に
彼女の体はついていけなかった
そして ついに
彼女はゆり椅子にも
座ることが出来なくなった

無理にでも
入院させるべきだったのかも知れない
でも いつも影のように
消え入りそうにひっそりとしている彼女は
どうしても動こうとしなかった
ベッドから
窓辺に置かれたゆり椅子を眺め
そしてゆっくり僕に目を移す
悲しげに そして 優しげに...
声を持たない彼女は
目で そのしぐさで
多くを語っていた

・・・連れて行かないで・・・

声なき声で
彼女の心が叫んでいた

その日は
朝から冷たい雨が降っていた

うさぎのぬいぐるみと
小さな女の子の写真を胸に抱いて
彼女の呼吸が
急に不規則になった
救急車を呼ぼうと
僕が離れようとしたとき
彼女は僕の手を強く握り締めて
離さなかった
苦しい息で首を振る
そして
静かに微笑んだ

呼吸がだんだん荒くなって
目がうつろになってきた
それでも
僕の手と 写真を
離そうとはしなかった
その手が
力を失っていく
ああ...
彼女が逝ってしまう...
僕は彼女を抱きしめた
それは 彼女と暮らして
初めてのことだった

長い髪が
彼女の荒く苦しい呼吸で
頬に揺れる
彼女が夢でうなされたときに
そうするように
僕は彼女の髪をそっとなでた
それまで 苦しそうだった彼女が
安心したように
その瞳をやわらげ
そのくちびるをそっと動かして
そして...
僕の腕の中で
永遠の眠りについた
小さな女の子の写真を
胸に抱いたまま

冷たい雨に覆われたポプラの上を
彼女は煙となって旅立って行った
小さな彼女は
小さな白い壺の中にいる
僕が火葬場から出ると
あいつがハーレーにまたがって
雨に打たれていた

あいつと僕は
彼女の好きだったポプラ並木を
雨の中
ゆっくりゆっくり歩いた
沈黙は時に
多くを語るものだ...
僕達は
ただ 雨の中を歩き
そして
僕はあいつの前では決して
したことのないことをした
僕は...
あいつにもたれて泣いた...



人は
いったいどのくらい
沈黙を守れるのだろうか
何もしゃべらず
文字にさえ託さず
彼女と再会し
彼女と暮らしたこの数年間
失声の彼女の声を
僕は耳にしたことがない

話したいことがあっただろうに
再会した頃の
あの首から下の全身のあざ
それは
彼女の厳しかった結婚生活を
物語っていた
彼女の失声は
わが子を奪われた
深い悲しみが原因だった
どんなにその悲しみを
吐き出したかっただろう

そんなことを思い巡らしているうちに
いつの間にか夕暮れになっていた
彼女のゆり椅子には
彼女がいつも抱きしめていた
うさぎのぬいぐるみと
小さな女の子の写真が置いてある

僕は一度も
そのゆり椅子に座ったことがなかった
それは 彼女の聖域だった

白い壁の一角に
彼女の愛する子の写真が
わずかに飾ってある
陽が傾いてきた
白い壁が夕日に染まる
彼女の愛する子の写真も
そのやわらかな光を受けている
僕が窓辺に近づくと
少し開けた窓から風が入り
カーテンを揺らした
そして
写真立てが
カタンと倒れた
そこに見たものは
1枚の写真だった

夕暮れ時の窓辺に
ゆり椅子が置いてある
そして彼女が
小さな女の子を膝に抱いて
絵本を読んであげている
小さな女の子は
うさぎのぬいぐるみを抱いて
彼女を見上げ
彼女もやわらかな目で
女の子を見つめている

ああ...
彼女がいつもこのゆり椅子に座って
眺めていたものは
夕日ではなく
写真立ての後ろに
そっと飾っていた
わが子とのわずかな日々だったんだ...
ゆり椅子とうさぎのぬいぐるみは
彼女のこどもが触れたものの中で
唯一 彼女の手元に残ったものだったんだ
死の最期の瞬間まで
無言で入院を拒絶したのも
そのためだったんだ...


僕は...
彼女はずっと悲しみの中で生き
悲しみの中で逝ってしまったと思っていた
でも違ったんだね
彼女が最期に遺した言葉の意味を
僕はやっと知った

あいつは時々ハーレーに乗ってやって来た
夕暮れに染まる写真を携えて
そして
彼女のゆり椅子の上に
そっと置いた

「辛くないか」

あいつはいつもそうなんだ
僕が何も話さなくても
まるで心を見透かすように
それでも口出しせず
たださりげなくぽつりと言うんだ
僕は無言のまま
ビールを飲み干した
あいつはタバコを取り出し
僕に差し出した
煙が空間を漂う
それで僕達は通じるんだ...

数年経った今も
僕は夕暮れ時に
ポプラ並木をひとりで歩いている
僕の横には今は亡き君が
寄り添うように歩いているようだ
葉の揺れ
水面のわずかな彩りの変化に
その瞳を輝かせ
その瞳を翳らせながら

僕はひとり君を想い
君との日々を見渡す
僕達の物語は
セピア色の中で
続いていく
そして
彼女が最期に小さい息を懸命に出した
あの懐かしい「声」が
今も僕の耳に残る

ー 幸せだったわ...ありがとう... ー


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