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【 Tinymemory 2 】


僕は彼女を医者に連れて行った
家族でなければ病状を知らされないから
”兄”と名乗った

脳波には異常はない
記憶喪失ではなさそうだ
ただひどい栄養失調にかかっていた
そして首から下には
全身あざの痕があった

緊急入院し 連日点滴を打った
失声は”深い悲しみの表れ”だそうだ

遠隔用(*)の保険証に
夫と思われる人の勤め先が書いてある
電話をしてみたが
彼はいなかった
名前から自宅の電話番号を探したが
登録されていない
彼女に何が起きたのだろう...


あれから2年が過ぎた
彼女は僕の部屋にいる
言葉もなく筆談もしない彼女を
ほっては置けなかった

朝 僕の姿が見えなくなるまで
彼女は小さく手を振って見送ってくれる
夕方 駅まで迎えに来て
夕暮れのポプラ並木を
ゆっくりゆっくり2人で歩く

2年の間に全身のあざはほとんど消えた
幼子のようにお座りして
僕が体を洗ってあげるのを
待っている
シャンプーが入らないように
ぎゅっと目をつぶって
両手で耳を押さえている
その姿は
本当に幼子のようだ

うさぎのぬいぐるみと
小さな女の子の写真を胸に抱いて
胎児のように丸くなって眠る
彼女が眠りについたら
僕は隣の部屋のソファーで眠る
時々 彼女はうなされる
慌てて彼女のそばに行き
その長い髪をそっとなでる
何かにおびえているように
震えていた彼女が
僕の手に気づくと
安心したように瞳を和らげ
そして眠りに入っていく
うさぎのぬいぐるみと
小さな女の子の写真を胸に抱いて
小さく小さく丸くなって


彼女に何が起きたのかわからない
彼女は未だに言葉もなく
何も知ることは出来ない
彼女がどんな生活を送っていたのか
僕は知ることは出来ない
昔の彼女はよく笑い
やわらかな声でよく話したものだ

いつか 彼女の居るべき場所へ
彼女を戻してあげなければならないのだろう
それまで僕は
兄のように見守り続けるだろう


今日も君と
夕暮れ時のポプラ並木を歩く
葉の揺れ
水面のわずかな彩りの変化に
君の瞳が輝き
君の瞳が翳る
今にも泣き出しそうな顔で
遠くを見つめて
思い出したように
僕を見上げ その瞳にぬくもりが戻る
いつか 君が居るべき場所に戻るまで
この静かな生活を
僕は守り続けよう


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*遠隔地被保険者証

保険証は従来は1世帯に1通しか発行されなかった。しかし、学校、仕事(出張等)その他の事情で家族(被扶養者)が遠くに離れて生活している場合、その家族が保険証を持って受診するのは困難である。そこで、申請により、学校や仕事の関係で遠方に住む家族のためにもう1通の特別の保険証を発行してもらうことができるようになった。この保険証のことを遠隔地被 保険者証(えんかくちひほけんしゃしょう)という。


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