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【 Tinymemory 8 】

僕達は
愛の言葉をささやくことなく
未来を語ることなく
ただ寄り添って
静かに時を過ごしていた

深い悲しみの果て
声を失った彼女は
音声の言葉以上に
その瞳で
そのしぐさで
多くのことを語っていた

数年前の真冬の突然の再会は
痛ましいものだった
骨と皮ばかりに痩せほそり
今にも崩れそうなアパートには
狭い一間の部屋に
簡単な台所
一人分の茶碗 湯のみ 箸 皿 スプーン
薄い布団 衣装ケース1個
小さなテーブルに母子手帳と聖書
そして その部屋には不釣合いの
ゆり椅子 その上のグレーのうさぎのぬいぐるみ
電化製品などは何もない
ひとりでどれくらい住んでいるのだろう
暖房もなくどうしていたんだろう

首から下の全身のあざ
全内蔵機能低下
失声
「よくこんな体で生きていましたね」
医者も驚くほど
彼女はボロボロだった

彼女はひとりだけの戸籍だった
記載されている両親とは
苗字が違っている
本籍移動のため
必要書類を揃えて
その理由がわかった
彼女は結婚していたときの苗字を使っていた
そして 女の子の母でもあった
彼女がどんな結婚生活を送り
ひとりになったのか
僕は想像する範囲でしか
知る由はなかった


一度だけ
”母”としての彼女を見たことがある
人ごみを嫌がるように見える彼女
公園なら大丈夫だろうと
いつものポプラ並木の散歩道から
少し足をのばした

昼下がりの公園には
親子連れが憩っていた
彼女は目を伏せ
消え入りそうにベンチの端に座っていた

彼女の足元に
ボールが転がってきた
ボールに目をとめ
彼女が目をあげると
向こうからよちよち歩きの
女の子がやってきた
彼女がボールを拾い
ゆっくり立ち上がると同時に
女の子が転んだ
彼女はハッとしたように
大きく目を開いた
その子の親らしい人は
おしゃべりに夢中になって気づかない
彼女は駆け出し 女の子を抱き起こし
女の子を包み込むように
ふわっと抱きしめた

膝をなで
手をなで
頬をなで
やわらかな髪をなで
もう一度そっと抱きしめた
そしてその小さな体に手を回したまま
ボールを女の子に渡した

親がやっと気がつき
向こうから呼んでいる
彼女は親を見
小さな女の子を見た
女の子はボールを両手で抱えて
よちよちと歩き出した

それは一瞬の出来事だったが
まるでスローモーションのように
時がゆったりと流れた
女の子を見送る彼女の後姿は
彼女が5年間
わが子と過ごした日々を
物語っていた

彼女の後姿が
傾いてきた陽とともに
”母”の姿から
悲しい少女に戻って行った


夕暮れ時のポプラ並木を
彼女と一緒に家路に着く
彼女が
影のように
消え入りそうに
ゆっくりゆっくり歩く

葉の揺れ
水面のわずかな彩りの変化に
彼女の瞳が輝き
彼女の瞳が翳る

今にも泣き出しそうな顔で
遠くを見つめて
その手にいつも包むように
持っている
小さな女の子の写真をなでる
はっと思い出したように
おびえた顔で僕を見上げ
ふっと安心したように
その瞳にぬくもりが戻る
そして僕達は
言葉もなく
夕暮れのポプラ並木を
ゆっくりゆっくり歩く

夜になると
彼女は浴室で
幼子のようにお座りして
僕が体を洗ってあげるのを
待っている
シャンプーが入らないように
ぎゅっと目をつぶって
両手で耳を押さえている
その姿は
本当に幼子のようだ

うさぎのぬいぐるみと
小さな女の子の写真を胸に抱いて
胎児のように丸くなって眠る
彼女が眠りについたら
僕は隣の部屋のソファーで眠る
時々 彼女はうなされる
慌てて彼女のそばに行き
その長い髪をそっとなでる
何かにおびえているように
震えていた彼女が
僕の手に気づくと
安心したように瞳を和らげ
そして眠りに入っていく
うさぎのぬいぐるみと
小さな女の子の写真を胸に抱いて
小さく小さく丸くなって

彼女と過ごした数年間
僕は兄のように見守り続けた
僕達は
愛の言葉をささやくことなく
未来を語ることなく
ただ寄り添って
静かに時を過ごしていた
彼女の旅立ちの日を迎えるまで



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