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8割は知らない?琉球王国は2王統で構成されていた!【教養版・発展版】

みなさん、こんにちは! 伊江朝恭です。


前回の記事につきまして、多くの方々から好評をいただき、心からお礼申し上げます。今後もみなさんから興味関心を持っていただけるようなnoteにしていきたいと思いますので、よろしくお願いしたします!

今回は教養版と発展版ということで、前回よりも少し深く書いていこうと思います!少しでも難しいと思われた方はぜひ前回の記事を合わせてご覧いただきますようにお願いいたします。


それでは早速テーマに移りましょう!

2つの王統

今回のテーマ「琉球王国は2王統で構成されていた!」ですが、そもそもご存じない方が大半かと思います。

前回記事の最後に書かさせていただいたのですが、日本史の教科書、資料集、用語集の中で紹介されている琉球王国の人物は4人です。

尚巴志、尚円、尚真、尚泰 

この4名ともに琉球王国の国王なのですが、“尚”姓であるこの4名でも実は王統が分かれているのです。

1429年 琉球王国を建国した尚巴志は「第一尚氏王統

1470年 尚巴志の子孫である国王の政権をクーデターにより奪取した尚円は「第二尚氏王統

クーデター!?と聞いて驚かれている方も多くいらっしゃるかと思いますが、諸説ある中でも最有力な説はこのクーデターによる政権奪取です。(日本史大手の山川出版社の『日本史図録』などにも既にクーデターと明記されている)

またこの「第一尚氏王統」や「第二尚氏王統」という呼称は明治時代の日本人が分かりやすくするために付けた現代の歴史観によるものです。

三山時代を統一後にも琉球王国への冊封は中山王に対して行われていました。そのため尚円は自身のことを「第二尚氏王統始祖」と考えていたわけではなく「18代琉球国中山王」と考えていたわけです。


琉球国王家 世系図

今後理解がしやすいように「第一尚氏王統」と「第二尚氏王統」のそれぞれの世系図をご紹介します。(右:第一尚氏王統 左:第二尚氏王統)

尚家家系図

世系図内で赤文字で表記している国王は上記で取り上げた4人です。

世系図から分かること

この世系図で読み取れることとしては2つあります。

①第一尚氏王統は7代で約40年間

 第二尚氏王統は19代で約410年間と両者には統治年間に差があること

②第一尚氏王統は尚巴志を中心とした政権であったこと

第二尚氏王統の統治した時代が非常に長かったため、王統が2つ存在したことを知らない人が多いのかもしれません。また第一尚氏王統の世系図を見るといかに尚巴志がカリスマ的存在であったかがうかがえます。


キーマン・尚円

第二尚氏王統の始祖である尚円は即位後にその名を名乗ったため、それ以前は「金丸」という名前でした。金丸は第一尚氏王統の6代尚泰久に登用されます。


クーデター?矛盾点

第二尚氏王統における正史「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」の中には
 『成化五年〈1469年〉己丑(つちのとうし)四月二十二日、享年二十九にして薨じてしまわれた。時の摂政(しっしー)達は、幼少の世子〈皇太子〉を即位させようとしたが、国人は世子を廃して、内間里主御鎖側(うちまさとぬしうざしすば)を推戴した。これが中山王尚円である。』

(中山世鑑によると、この1469年に薨去したとされているのは尚徳であり、尚巴志の孫にあたる国王です。尚徳が薨じたのちに、民から推されて金丸が国王になった。)

と記載されています。

しかし同じく王国の正史「歴代宝案(れきだいほうあん)」には、尚徳が最後に明へ派遣した使者が携えていた文書の日付が『成化五年(1469年)八月十五日』とされているため矛盾が生じています。

また「琉球国由来記」の中でも尚徳が巨大な鐘を鋳造したとされており、その鐘銘の日付が同年十月七日と記載されています。

こうしたことから、尚円がクーデターにより政権を奪取し、時の世子〈皇太子〉である中和を廃したとされています。

このように文書によって異なっている理由として、「中山世鑑」などは尚円以降の第二尚氏王統時に編纂されているからです。(歴史は勝者が作るとも言いますし,,,)

私の意見

私は尚円を恨んでいるためにこのように「クーデター」と記載しているわけではありません。
むしろ逆なのです。それは私の20世前の祖先がこの尚円だからです。私は高校時代に山川出版社の図録を読みながら「クーデターなんかじゃない!!」と毎回頭の中で勝手に訂正を入れていました(笑)

またもや矛盾点・謎の王"中和"

しかし個人的に調べていくと、やはり政権奪取だったのだろうなと感じる部分があります。

私がそのように考えた最後の理由を紹介したします。それは朝鮮王朝で書かれた「海東諸国紀」の内容です。

その中に1471年琉球からの使者の言葉が残されています。

『今の王の名は中和、時に未だ号さず。年16なり。』

とあります。
この「号さず」とは冊封を受けていないため、正式に国王とは明から認められていないことを指します。

これは正史に基づくと尚円でなくては辻褄が合わないのです。
そのため使者が琉球を立った際には尚徳の世子〈皇太子〉として“中和”が即位してたのではないでしょうか?
そして使者が謁見していた際にクーデターによる政権奪取が行なわれたと考えられます。


なぜ2王統ともに"尚"なのか

ではなぜ金丸は第一尚氏王統と同様に“尚”を名乗ったのでしょうか?

それは明に対して正当な政権禅譲であることを示し、今まで通りの冊封を受けるためでした。明は琉球にとって宗主国であり、冊封によって国王として認められる必要がありました。

金丸の作戦は見事大成功し、従来同様に冊封を受けることができたというわけです。

こうして尚円を始祖とする第二尚氏王統は19代、約410年間にわたって琉球王国を統治するのでした。


おわりに

みなさん、いかがでしたか?

内容が盛りだくさんでしたね。「正直少し難しかった~」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。発展版の知識も多数盛り込みましたので、難易度は前回よりも上がってしまったかもしれません。

冒頭でも申し上げましたが「少し難しい!」と思われた方は、前回の記事も合わせてご覧いただくと内容が理解しやすくなると思いますので、ぜひともご覧ください!


最後までご覧いただき、ありがとうございました!!

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