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半沢直樹?黄金期を呼び寄せた王妃“オギヤカ”とは!?【教養版】

みなさん、こんにちは! 伊江朝恭です。


昨日までの記事では第一尚氏王統の動乱について2回に分けてご紹介してきました。

本日は第二尚氏王統の初代国王尚円の時代についてのお話をさせていただきます。


第一尚氏王統と第一尚氏王統

今回からご覧になられる方に向けて図を再度掲載します。「もう大丈夫!」という方は飛ばしていただいて構いません!

尚家家系図

左:第二尚氏王統  右:第一尚氏王統

このように“琉球王国”と一口に言っても2つの王統が統治していました。
どちらも「尚」と名乗っていたので誤解されがちなのですが、これは宗主国である中国(明)に対して王位継承が正当なものだということを示すためでした。

これは第二尚氏王統の初代国王尚円はクーデターによって政権を奪取したためです。

こうして政権が第二尚氏王統に移ったわけですが、第二尚氏王統は約410年間と長期的に王国を統治するのでした。

ここまでが振り返りになります!


黄金期を築いた尚真とは!?

では今回のテーマに移りましょう。

みなさんは琉球王国の黄金期をご存じですか?

山川出版社の教材で日本史を学ばれている方は図覧に記述されていますが、それは3代国王尚真の時代です。


次回以降で詳しくお話させていただきますが、

尚真は国王として最長の在位50年間であり、各地の按司(あじ:有力者)を従え、中国・日本・東南アジアと貿易の基礎を確立、そしてその後の琉球王国の礎を築いた人物です。

漫画「琉球のユウナ」でもイケメンで徳の高い国王として描かれています。(個人的に非常に好きな作品です笑)



その尚真ですが即位したのがなんと13歳であり、その裏にはある人物の力が動いていたとされています。

それが今回の主人公である尚真の母オギヤカ(宇喜也嘉)です。


黒幕のオギヤカとは?

初代国王尚円は北方の伊是名島出身で、妻と弟がいました。

妻のその後については現在でも不明です。

その後尚円は50歳の時に20歳のオギヤカを后に迎え、マカトダルガニ(久米中城王子)が産まれます。


しかし在位7年間で尚円が薨去してしまい、当時12歳のマカトダルガニに王位を継承させるわけにはいかず、尚円の弟が2代国王尚宣威(せんい)として即位しました。


オギヤカ

自身の子供を即位させたいオギヤカは、義弟(尚宣威)の家系に王位が流れていってしまうことを危惧しました。


オギヤカの秘策

オギヤカはある画策をします。

それは神官の最高位に位置する聞得大君加那志が当時尚真の姉である音智殿茂金(オトチトモガニ)であったことを利用して、息子に即位させる作戦でした。

聞得大君加那志(きこえおおきみがなし):チフィジンガナシとも。琉球王国固有の最高位の神官で、「女官御双紙(1706年編纂)」によると国王の姉妹から選出された。国王のヲナリ神として王妃よりも上の位であり、ヲナリ神の霊力を以て国王の安泰・国家の繁栄に寄与した。


1477年2月、即位半年を迎えた尚宣威に対して、新王を慶賀(祝賀)するキミテズリ(君手擦り)の神による儀礼があるというお告げをしました。


キミテズリの神:国王の即位後に必ず1代に一度現れ、国王を慶賀する神。国王は神から祝福を得ることで“神号”が与えられ、統治者として権威を得ることができた。


信託の際に尚宣威は王座に座り、尚真を側に座らせていました。

しばらくすると女神官たちが内殿(女官室)から出てきて奉神門までやってきて、西面に立ちました。

しかし従来の即位の際には女神官は東面に立つのがものだったのです!

奉神門

奉神門


この異変に群臣たちが驚きました。

その最中、女神官が信託を告げます。

「首里おわるてだこが 思い子の遊び 見物あそび なよればの物見」

(首里城に君臨する王様のかわいいお子の遊ぶお姿。愛らしく遊ぶお姿。踊るお姿の愛らしさ)


このようなおもろ(歌謡)を謡ったのでした。

新王を称えるはずのキミテズリの神があろうことか尚真の方が国王としてふさわしいとの信託を告げたのです。

キミテズリの神から祝福を受けることができなかった尚宣威は、在位わずか半年で退位し、以前の領地であった越来(ごえく)村に隠居してしまいました。


これにより3代国王として尚真が13歳の若さで即位し、琉球王国の黄金期を迎えるのでした。


徹底された排斥劇

尚宣威の血筋を排除しようとしていたことが見受けられる点が実はまだあります。

それは玉陵(たまうどぅん)の碑文から見ることができます。


玉陵(たまうどぅん):正史には“玉御殿”と表記される。尚真が父尚円の遺骨を見上森から移葬するために創建し、歴代の王族の遺骨が納められている。墓は3室に分けられていて、正寝である東室には国王・王妃、西室には正妃・正嫡以外の遺骨が納められている。沖縄戦により相当な被害を受ける。


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玉陵


玉陵 碑文

玉陵碑文


尚真には王妃の他に2人の夫人がいました。王子、王女が7人いましたが、王妃との子である長男尚維衡は廃嫡にされ、5男であった尚清が4代国王として即位しました。これには尚真の王妃は尚宣威の王女であったことが関係しているとされています。


図にするとこのようになります。

尚真関係図


この図の赤い尚円の血統を正当な王家として受け継いでいきたかったのだと考えられます。


その証拠に玉陵の碑文には、尚真から7男尚源道までの9人の名前と

「この9人とその子孫は千年万年に至るまで玉陵に納めるように」

と書かれています。しかしその中には王妃居仁、長男尚維衡、次男尚朝栄の名前は書かれていないのです。


これには諸説ありますが、尚宣威の血統を排斥しようとしていたのではないかとされています。この碑文は1501年に創建されていて、現存する仮名書の碑文では二番目に古いものです。

オギヤカは1505年まで存命していたということで、この碑文にも関係しているのではないかと考えられます。


おわりに

いかがでしたか?今回も熱が入りすぎてしまい、少し長い内容になってしまいました(笑)

今回の内容は諸説あるもので、現在でも判明していないこともたくさんあります。その中でも一番有力な説を今回はご紹介しさせていただきました。

この内容が本当ならば「半沢直樹」なみの左遷劇ですね(笑)


今回も最後までご覧いただきまして、ありがとうございました!

次回の記事もお楽しみに!!

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