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第一尚氏王統の動乱①【教養版】

みなさん、こんにちは! 伊江朝恭です。

いつもnoteをご覧いただきまして、ありがとうございます。

はじめに

読書の秋ということで、私は最近は本屋大賞の著書を読むようにしています。中でも最新の大賞作品「52ヘルツのクジラたち」はとても心に沁みる作品でした。


さて早速今回のテーマ「第一尚氏王統の動乱」について説明していきたいと思いますが、今回は長編になる予感がしますので“①”としておきました(笑)

今回も分かりやすく解説してきたいと思いますが、少しでも「難しい!」と感じられた場合はTwitterのDMにご意見ください!

また前回までのnoteを読んでいただければある程度ご理解いただけるかとも思いますので、合わせてご参照ください。

第一尚氏王統の特徴とは!?

第一尚氏王統と第二尚氏王統のおさらいとして、以前取り上げた図を再度掲載します。

尚家家系図

右:第一尚氏王統 左:第二尚氏王統


この図から第一尚氏王統が短期政権であったことがうかがえます。第一尚氏王統は「尚巴志」というカリスマの影響力が非常に強く、7代まで続いた国王は全員巴志の息子か孫です。


2つの動乱とは…!?

この第一尚氏王統は以前ご紹介したようにクーデターによって政権を奪取されてしまい約40年間の政権に終わりますが、一体その間にどのような動乱があったのでしょうか?
動乱は大きく2つあります。

①志魯(しろ)・布里(ふり)の乱【王座争い事件】

②護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の乱【クーデター事件】

①志魯(しろ)・布里(ふり)の乱【王座争い事件】

尚巴志の時代、中国・日本・東南アジアとの貿易を盛んに行い、三線や泡盛や紅型などの琉球独自の文化が生まれました。

しかしその後の国王たちは短命の政権が続き、5代国王尚金福もその一人でした。金福はわずか在位4年にして56歳という若さで薨去しました。

そして金福の死後に王位継承問題が発生します。

1454年に金福の長男である尚志魯(しろ)と金福の弟の尚布里(ふり)が王座を巡って対立を始めたのです。

しろfuri

両者の言い分はこのようなものでした。
志魯は世子(皇太子)であったにも関わらず、布里は巴志の王子(六男)という立場を利用して王位を狙ったのです。

争いは本格化し、王府の勢力は二分され武力抗争に発展してしまいます。

布里は出兵し攻撃をはじめ、志魯も兵を起こし防戦しました。

この争いより首里城は焼け、志魯・布里は2人ともに命を落としました。

また明から賜った鍍金銀印(ときんぎんいん)も倉庫が燃えたことにより、焼失してしまいました。

この結果、巴志の七男である越来王子(ごえく)は尚泰久として6代国王となりました。
そしてこの一連の出来事を明に報告したことで尚泰久はもう一度鍍金銀印(ときんぎんいん)を賜りました。


伝承・フィクションか?

この乱には伝承もあります。
例えば、布里は志魯を殺害して城を逃れて転々としたのちに、玉城村当山に永住したというものが存在し、人々の興味を惹きました。

また、この志魯・布里の乱自体が尚泰久による捏造ではないかという意見もあります。
正史には「尚泰久は国民に推されて王位についた」と記されていますが、権力を志魯から奪ったのちに都合よく描いた事件とも考えられています。
その根拠として正史には“首里城全焼”と書かれていますが、首里城がその時代に全焼した記録は未だに見つかっていないのです。


おわりに

いかがでしたか?今回は第一尚氏王統の動乱として志魯・布里の乱を解説させていただきました。

平和なイメージの琉球ですが、実は血生臭い王位継承の争いが起きていたのです。

次回は今回の続きとして「護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の乱」を取り上げたいと思いますので、お楽しみに!

最後までご覧いただき、ありがとうございました!



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