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僕が美容師を目指し、渡米し、そして美容室を経営するようになるまで(中編) part2

こんにちは。東京・三軒茶屋でStoopという美容室&コーヒースタンドを経営しています、溝田 隆幸です。

自己紹介代わりの「僕が美容師を目指し、渡米し、そして美容室を経営するようになるまで(中編)」の続き、今回は "(中編) part2" になります。

   *(中編)はこちら ↓

(中編) "part2" は、(中編)でNYへ向けて飛び立ったところからの続き、「NYに到着してから → HAIRMATESと出会い → その後NYで5年間暮らす」までです。

このNYでの5年間とHAIRMATESとの出会いは、それまでの僕の人生を180度変えた大転換期でした。
まぎれもなく今の僕の人生観、価値観、を作った5年間です。


そんな5年間でしたので、今回は特に長くなってしまいましたw。
前回同様、どうか目次から、気になる部分だけ読んで頂けたら幸いです。

10.New Yorkでサバイブ

意気揚々とLAを飛び出し、New York の LaGuardia Airport に着いたのは夜の8時頃。

もう夜なのでLAに着いた時と同様まずは寝床探しです。
しかしこの時の所持金はたったの数万円。。

野宿でもよかったのですが、季節は冬の12月。
NYの冬は毎年凍死者がでるほどの寒さです。。
野宿はあきらめ、安さを求め地下鉄に乗ってできるだけ街の中心から離れました。
どことも分からない駅で降り、危険そうな雰囲気漂うエリアでモーテルを探す為に歩きました。

寒さのせいか外にはほとんど人が歩いておらず、そのお陰でかなり歩いたけど危険な目に会うこともなく一件のモーテルを見つけることができました。
見つけた時は何時だったのか、、、。確認する気力もないまま、NY初日はそのまま倒れるように眠りにつきました。。。

~~~~~~~~

翌朝、さらにお金を節約する為に僕は「ドミトリー」と呼ばれる宿泊施設に移ることにしました。
「ドミトリー」とは、大きな部屋に2段ベッドがたくさん置かれた、バックパッカーがよく泊まるような施設です。

「地球の歩き方」に載っていたそのドミトリーは、マンハッタンのアップタウンと呼ばれるエリアにありました。
そこで1週間分の滞在費約1万円を払い、僕は荷物を降ろしてすぐにマンハッタン内を色々と歩く事にしてみました。

セントラルパークに5番街、タイムズスクエア、ソーホー、ハーレム、、、
NYの代表的な観光スポットはもちろん、NYはただただ歩いているだけで、そこから見えるもの全てが絵になるような風景ばかりでした。
そして思っていた通り、NYは行きたいところがあればどこにでもすぐ行ける街。
時間がたっぷりあった僕は朝から夜まで、いろんなエリアを見て歩きまわりました。

NYを歩いていると、「ただ自分がそこにいるだけでどこかエンターテイメントの世界の中にいるような錯覚」を感じます。

街並み、公園、ビル郡、行き交う人々、地下鉄、ファッション、音楽、、、
目に入る物、耳に入る物全てに興奮しっぱなしで、僕はすぐにNYの虜になりました。

憧れだった Lafayette Street のSupremeの、入り口にずらっと並んだモニターをストリートから眺め、ハーレムの本場の空気感に圧倒され、、。

たくさん人の集まるスポットから人気のない路地裏まで、NYのどこを見てもその興奮は冷めることなく、気持ちはすぐに「この街でもっといろんな物を見てみたい」と思うようになりました。

でも数万円しかなかった所持金はさらに減って、残りはいよいよあと2~3万円。。。


「困った、、あと少ししかお金がないぞ。。でもNYにはもっと居たいし。。」 


どうしようか、、、と考えますが、「とにかく生活する為には仕事をしてお金を稼ぐしかない、、。」

それぐらいしか思い付かなかった僕は、ただただNYにいたい一心で特に深く考えることなく、ドミトリーのすぐ近くにあったデリに、棲み込みで働くことは出来ないかと聞いてみました。

冗談みたいな話かもしれないですが、本当にただ突然お店に入り店員さんにこう聞いてみました。

「Hi, I'm looking for a job. Can I work here?」

と、相変わらず少ないボキャブラリーで唐突に。


まぁ当然答えは「NO」

「だよな、、」と思いつつ、でももう一件別のデリでも聞いてみます。


次もやっぱり「NO」

しかもこの2軒目のおじさんには、「あぁ??ダメダメ。チャイニーズレストランでも行って聞いてこい」みたいなことを言われました。

今もそうかもしれませんが、20年前の当時は今よりもっと「アジア人=中国、韓国、日本、、、そこら辺みんな一緒」みたいに思っている人がNYには多く、言葉も「アジア人同士ならみんな分かるんだろ?」と思う人が多くいました。

このデリのおじさんもきっとそう思ったのでしょう。

人によってはそれは差別や罵りに聞こえるかもしれないですが、僕の場合は「なるほど、、、」と思い、そして次に「チャイニーズレストランがあるなら日本食レストランもあるかも、、、」と考えました。

手にしていた”地球の歩き方”を見ると確かにNYには日本食レストランが何軒かあります。
すぐにそのお店がある場所まで行き、同じように直接訪ねて「仕事を探してるんですが、、、」と聞いてみました。

でも答えはやっぱり「NO」、、、

お店の人からしたら僕は、NYに住んでいるわけでもなく、住所すら無い無茶で無知なホームレス、、

「ですよね、、、」と思いつつ、でも諦めずにその後も何軒かあたってみました。すると、、


「いいよ。週6日で、昼前の仕込みから夜の閉店までね」

と言ってくれたお店が。


「うおーーー!やったーーー!!」

そのお店の人に「とりあえず住むとこ決まったら連絡して」と言われ、「やった。これでNYに住める!」とルンルン気分でドミトリーまで帰りました。

   

ところが、ドミトリーに帰りしばらくして落ち着きながら考えていると、、

「いや待てよ、、、。週6で朝から晩まで日本食レストランにいたら、俺NYにいる意味無くないか、、、」

と思うようになります、、。


週6で朝から晩まで、NYで日本人と日本食レストラン、、、。

”週1日休みがあって、来るお客さんは外国人”
と考えるとNYで日本食レストランで働くことには十分意味があると思いますが、その時僕はまだNYで何かに挑戦をしようとしていた訳ではなく、そう考えるとそこで働くことこそが全てになりそうで、、。

そう思うと僕にはそのレストランで働く意義を上手く見出せず、、、。

その後僕は、突然のお願いを快く引き受けてくれたその日本食レストランに連絡し、結局そのお店をお断りすることにしました。。。

週6で働くことは全然イヤではありませんでした。朝から晩までももちろん平気です。
日本食レストランということだけでした。

「でもこんな自分を雇ってくれるところなんてどこも同じような条件だろうな、、、この先何件日本食レストランを当たっても同じかな、、、」


と、それからどうしようか少し悩んでいた時に、また「はっ!」とひらめきます。

「でもそれなら、、、同じ週6日でも、もし美容室で働くことができるなら、そんな夢みたいなことはないぞ、、、。それなら毎日朝から晩まででも凄い経験になるぞ、、、。」 

「良いこと思いついた!それだ!」と僕は水を得た魚のように、今度はNYにある日系サロンをすぐに探してみました。

”日系サロン”に絞ったのは、この時僕はまだまだ英語が上手く話せず、相変わらず英語でのコミュニケーションは楽しんでいましたが、仕事をする上では不十分で相手に迷惑をかけてしまうと思ったからです。

ただ、仕事量だけはとにかくこなす自信がありました。それまでたくさんのバイト経験があり、高校生の時から常に「学校」と「バイト」の両立です。
それが「仕事」だけなら、働く量なら誰にも負けないぞと思っていましたし、美容師の技術はないけれど、それ以外なら何でもやるつもりでいました。

そんな変な自信を胸に、胸躍らせながら僕はまず美容室探しから始めました。

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11.HairmatesとToshiさんとの出会い

「NYで美容師になる!」と決め日系サロンを探してみることにしましたが、持っている ”地球の歩き方”には3件ほどしか載っていません。
もっとあるはずだと思い、情報を集めようとミッドタウンにある「紀伊国屋」という日本の本屋さんに行ってみました。

紀伊國屋は昔からNYにある大型の本屋さんで何かそういった本がないかと探していると、日本のタウンページのようなお店と連絡先がズラッと書いてある、分厚い情報誌のようなものを見つけました。

それを手に取り「美容室」のページを開いてみると、ザッとみただけでも20~30件の日系サロンの名前と連絡先が載っていました。

「これだっ!」と思い、すぐにでもその本を買いたかったのですが、、、手持ちのお金が少ないことを考えると買えません。。。

かといってそんな数のお店を一度には覚えられないので、僕はその情報誌を持ってお店の隅っこに行き、「怒られるかなぁ~、、」と心配しながら、でも急いでそのページを持っていたノートに書き写しだしてみました。

でも10件ぐらい書いたところですぐにお店の人に注意され 、、、
素直に謝ってその本を返しました。。

しかも書けた10件は店名のみ。場所も連絡先も分かりません。

どうやってその先を調べるか、悩みながらまた”地球の歩き方”を見ていると、、、


『NY滞在中に困った時はここへ ⇒ NY観光案内所』


というのを見つけ、
「、、、あっ、、、、もしかしたら、、、このやり方、、いけるかも、、、?」
とひとつアイデアが思い浮かび、その観光案内所へ行ってみることにしました。

ついたその観光案内所はミッドタウンのビルの一室にあり、中には日本人の方が3~4人ぐらい働いていました。

そのうちの1人に僕は、

「あの~、すみません、、。僕はいとこのお姉さんを頼って一人でNYに来たのですが、そのお姉さんの連絡先を書いたメモを無くしてしまいました、、。でもお姉さんはNYで美容師をしています。何というお店かは分からないけど、一件一件聞いてみたらそのサロンにあたるかもしれません、、、。自分で電話をして聞いてみるので、、、その何か、NYにある日系美容室の一覧みたいなのはあるでしょうか、、、?」

と頼んでみました。もちろん全てウソです。

人の親切心に訴えたよくないやり方なのは分かっていましたが、我ながらよくもまぁこんな悪知恵が働くものだ、、、とも思っていました。

しかしそう言った僕を案内所のお姉さんは「それは困ったねぇ、、」と不憫に思い、疑うことなく”紀伊国屋”で見たのと同じ情報誌を僕に見せてくれました。

(やった!これだ!) と喜びが溢れ出しそうになる表情を抑え、僕は困った顔を維持しながらwお礼を言ってそこに載ってある日系サロンの連絡先を全て書き写しました。
「ここで電話する?」と言ってくれたお姉さんに
「あぁ、、、いや、、、そんな、そこまで、、、大丈夫です!」
もう一度お礼をし、そう言ってその場を離れました。
あの時のお姉さん、本当にありがとうございます。。


こうして約30件ぐらいの日系サロンの連絡先を手にする事が出来た僕は、ビルから出て近くの公衆電話から早速一件一件電話をしてみました。

電話をし、スタッフを募集しているかどうかをまず確認し、募集しているようなら働きたいことを伝えます。
事前にそこがどんなお店なのかを確認する余裕もなく、またそもそも自分から働き先を選べるような美容師としてのキャリアも技術もありません。
”雇ってもらえるならどこでも”
と思い、片っ端から電話をしていきました。

でも連絡しても、募集しているかどうかでまず半減、、、。
次にキャリアを聞かれ、「未経験、、、」と答えると更に半減、、、。
その次に働けるVISAを持っているかどうかを聞かれ、「ない、、」と答えるとまた半減、、、。

といった感じで、20件ほど連絡をしたところで「じゃとりあえず話を聞くから来て貰おうかな」と会ってくれることになったのは5件ほど。


でも僕の当時の状況からしたら会ってもらえるだけでも十分なぐらいです。

それなのに僕は、
「会ってくれるってことは、、、もしかしたら何とかなるかも!?」
と勝手に期待に胸膨らませ、順番にアポを取れたお店を訪ねていきました。


この時、僕がアポを取れたお店のほとんどはミッドタウンというエリアにありました。
ミッドタウンは東京でいうと銀座みたいなところ。美容室に限らず高級なお店がたくさんあるエリアです。

僕が訪ねた美容室も例にもれずどこも高級店で、ビル構えからして自分には分不相応。。
どことなく落ち着かず、ビルの入り口から既に場違い感を感じて緊張していました。

その場違い感はやはり当たっていたようで、入り口に入るなりお店の人は訪ねてきた僕を見て、、、

「あ、、、」


と、半ば絶句気味。


当時の僕はおよそ高級店には似つかわない格好で、HIPHOP/スケーター然としていて頭は丸坊主、唯一綺麗だったのがティンバーランドのブーツ、、、。

そんな僕を見てどのお店の人も面接を始めるというよりかは、やんわりと僕を断わる方向で話が進みました。。

「まぁしょうがないか、、、当然か、、、」

と思いつつ、でも

「雇ってくれたらめちゃくちゃ働く自信はあるのにな、、、」 

と憤りも感じながら、

「よし、NYにある日系サロンに全部ダメって言われるまであたってみよう。全部ダメなら潔く日本へ帰ろう」

と気持ちを入れ替え、残りのアポのあるお店に向かいました。

でも気持ちを入れ替えても結果は同じ、、、。
その後まわったお店も全て断られました、、。

それでもくじけること無くその後もお店探しを頑張れたのは、渡米前の苦労したVISA申請や、不安な中でのLA生活のスタートを乗り切った経験があったからでした。

「どんな時でもなんとかなった」という経験と自信は、困難を乗り越える為には本当に心強い味方です。


「NY中のお店に断られるまでは、、」
その誓いを胸に、自分を奮い立たせてその後もお店をまわりました。


そしてその日最後の7件目のお店に行った時、小さな奇跡がおこりました。


そのお店も同じミッドタウンにありましたが、それまでのお店と違いオーナーさんが直接話を聞いてくれることに。

そしてそのオーナーさんに、僕がなぜNYで職探しをしているのかを話すと、、

「うん、うん。自分も同じように若い時にNYに来て一人でお店探しをしていたからなつかしいよ。だから何とか協力してあげたいんだけど、、、残念ながらうちのお店は未経験のアシスタントを育てたりすることをしていないんだ、、、。
でも知り合いで、学生街でカジュアルなお店をしているオーナーさんがいるから、その人を紹介してあげるよ。」

と言ってくれたのです。


それはその時の僕にとって、なにか大きなチャンスが舞い込んできたような瞬間でした。 


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そうして紹介してもらったのがその時から現在までいるHairmatesであり、オーナーの ”トシさん” でした。
(トシさんはHairmates groupの社長ですが、全ての社員が親しみを込めて "トシさん" と呼んでいます)

トシさんと初めて会った時のことは今でも憶えています。

先に店で待つ僕のもとに出先から颯爽と現れたトシさんは、分厚いコートにハットを被り、そのいでたちはまさに ”Jazz-men”。

そんなカッコいいトシさんに目を奪われ、
「ここで働けたらいいな」
とはやる気持ちを抑えながら、でもワクワクして面接に移りました。

でも話しだしたトシさんは、神奈川の平塚育ちで、江戸っ子気質なところがあり口調がなかなか鋭く、

「ところでお前さんは何しにNYへ来たんだ?」
「何かをしに決めてきたわけではないんですが、来てみたくて来たらすごく好きになりまして、、、」 


「NYで何がやりたいんだ?」
「美容師をやりたいと思っています」


もうそのやり取りを終えただけでも、トシさんがイラつき始めているのが分かりましたw


「美容師なってどれぐらいだ?」
「いや、全く経験はありません、、、」

「VISAは持ってんのか?」
「いや、学生VISAだけです、、、」


ここでトシさんはいよいよ呆れ、ため息混じりに怒りながら、

「あのなぁ、お前なぁ、やりたいこととできることってのは違ぇんだよ(怒)」

と半ギレw。


でも僕はといえば "今自分は夢に向かって困難なことに挑戦している最中だ!" と勝手に認識していたのでw、そこでひるまず

「でもやってみないと分かんないっすよねぇ!?」

と僕も逆ギレ気味に返しましたw。

「あ~ダメだ。このオッサンは何も分かってねぇ。ここは言い返さないと気が済まないぞ」
という内心から出た言葉ですw

その後も
「あのなぁ、、、」
「いや、でも、、、」
とお互い引かないやり取りが少し続き、僕は、、、

「あ~、、ここはダメになってしまったな、、(せっかく紹介してくれたあのオーナーさん、ホントにすみません、、)」

と心の中で思っていました。


が、しかし、、 


「ところでお前は、、、なんで○○(紹介してくれたオーナーさん)と知り合いなんだ?」

と聞かれ、

「あ、いや、、NYで働きたいと思いいろいろまわっていたところ、うちでは難しいけどここなら、、、と紹介してもらいました。。」

と言うと、

「はぁ~、もうしょうがなぇなぁ~、、、。。。」

「お前その代わり、時給2ドルだぞ」

.
.
.

「えっ!?いーんですか!?」
「まじで!?やったぁ!」

奇跡のどんでん返しでOKをもらえたのです。きっと紹介してくれたオーナーさんがとても良い方だったでしょう。それともトシさんは何か大きな借りでもあったのでしょうかw


そしてその時同時に

「(えっ!?時給2ドル!?)」

とも思いましたがw、20件ぐらいあたってOKを貰えたのはここが初めてです。
「多分ここぐらいしかいいよと言ってくれるところはないだろう、、」
と思ったので、「まぁいーや!とにかくなんとかなったぞ!」とそれ以上は特に気にしませんでした。

~~~

NYに到着してからHairmatesでの就職が決まるまで、この間約5日間ほどでした。

所持金5万円ほどで、「お金が尽きて、もしかしたら寒空の下本当に野たれ死んでしまうかも、、」とも思っていた中、思いついたように始めたNYの美容室探しがまさか本当に叶うとは、正に夢が叶った瞬間でした。


ここまで本当に奇跡の連続。


この時僕は柄にもなく、本当に「神様の力だ、、、」と思いました。。。
そうでも思わないと説明がつかないぐらい、奇跡的なことだと思いましたから。。。

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*時給2ドルなことやVISAについて、当時はかなりグレーで法律の抜け穴的なものがいくつもありました。
今では絶対に無理なことだと思います。。

▼ トシさん

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12.NYで違法地下暮らし

働けることが決まって最初にしたのは家探し。
調べてみると日本人がいる不動産屋さんもあり、そこでとにかく安い物件を探して貰いました。
その結果出てきたのは、ブルックリンの違法地下物件。

「違法」というのは、地下に部屋があるのはNYでは全然普通のことですが、そこには「人が住む為には貸してはいけない」という法律があるようでした。(当時、今は知りません。。)

しかし当時もNYには不法滞在移民が多く、そういった人達はまともな部屋を借りることができません。
また僕のようにお金をあまり持たず、身ひとつで入国する人達もたくさんいました。

そういった人達を闇で住まわせていたのが、僕が紹介してもらったような違法地下物件でした。

違法ですが、設備は最低限人が生活する為に整っています。
水道、シャワー、電気、キッチン、とひと通りはありました。
背伸びをすれば頭が付く低い天井と、光が入らず昼夜が分からない窓の無い空間、を除けばw

でも何も贅沢を望んでいない僕には全然問題なく、寝ることさえできれば十分。家賃も月250ドル(約2万5000円)だったので即決し、そこから僕のNY生活はスタートしました。

その地下フロアには僕が住んだ部屋以外にも他に3部屋あり、その内の一部屋には50代ぐらいの中国人の方が住んでいました。
何をやっていてなぜそこに住んでいるのかも分からないですし、その方は中国語しか話せないのでコミュニケーションも全くとれませんw
そんな2人でキッチンとバスルームを共有した奇妙なシェア生活をしていました。

そして家具は全て近所の粗大ゴミの中から拝借。
粗大ゴミの日にあちこち歩き回り、ベッドやテーブル、ちょっとした収納家具まで、最低限生活に必要そうなものは全て揃えることができましたw

世界の中心のひとつである大都会NY、にいながらそのイメージとはほど遠い生活。

でも若かった僕はそんなシチュエーションに逆に興奮して、そしてそれぐらいがちょうどその時の身の丈にも合っているようで、それはそれでとても気に入っていました。
~~~~

仕事のほうはというと、美容室で働いた経験がない僕は初め右も左も分かりません。

出来る事といえば準備と掃除ぐらい。
でも「せっかく雇ってくれた恩を絶対に裏切るまい」と、朝から夜まで毎日、ただひたすら掃除をしまくりました。

毎日一人大掃除かっ、っていうぐらいに、壁から床から細かいところまで、ただただ一日中掃除です。

僕が働くことになったHairmates Downtown店は、日系サロンでありながら立地的に来るお客さんは8割がたがNYに住むアメリカ人。

NYは「人種のルツボ」と言われ、ヨーロッパ系、アジア系、アフリカ系、ラテン系、、、とほんとうに色々で、Downtown店で働くスタッフにもいろいろな人種の人がいました。

そして日本と違って以前から働き方が多様だったアメリカでは、スタッフは皆出勤日も時間もバラバラ。
なのでよく事情を知らないスタッフの中には、初め僕のことを「掃除屋さん」と思っていた人も多かったようですw

でもそんな僕に、アメリカ人スタッフも日本人スタッフもみんな仲よくしてくれました。

アメリカは多様な人種、出生、バックボーン、文化的背景、宗教、を持った人達が住んでいるので、一人一人が違って「個性」があるのが当たり前。
違うことがスタンダードなので、皆当然のように相手と自分が違うことを受け入れ、尊重します。
そんな風土は僕にとってもとても心地良いものでした。

「美容師」を目指す人は少なからず自分自身の「個性」を大事にし、その個性で勝負したいと思っている人が多いと思います。
僕もその内の一人でしたから、そんな僕以上に「個性」の主張が激しい人が多いNYでは、日本には無い精神的な開放感がありました。

なので例え毎日ずっと掃除ばかりの日々でも、僕はNYでしかも美容室で働けているということが嬉しくて、そこをクビになりたくない一心で掃除をし続けました。


そしてそれを続けること約3週間、それが認めて貰えたのか、少しづつ美容の技術も教えてもらえるようになりました。


▼Hairmates Downtown店

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13.初めてのシャンプー、そしてスタイリストになるまで

最初に教えてもらったのはシャンプーです。
シャンプーができるようになると、日本と同じようにカット前のシャンプーをスタイリストさんの代わりにさせてもらえるようになります。

ですが日本とアメリカで大きく違うのは、シャンプーをするとなんとお客様からチップをもらえる!ということ。

アメリカでは、お客さんがサービスを受けた際はチップを渡す文化なので、美容室でも施術料金以外にチップを受け取ります。
それが、アシスタントがシャンプーをした際にも同じようにチップを貰えるのです。

これは経験したことがある方なら分かると思いますが、このチップというのは貰うとめちゃくちゃ嬉しいのです。

「チップ貰えるのはある種当然の事」とは分かっていても、「ありがとう」の言葉と共にチップを頂けることは、日本では味わえない本当にすばらしい体験でした。

そして当時は大体「シャンプー1回でチップ2ドル」というのが相場でしたが、お客様が喜んでくれると「とても気持ちよかったよ!ありがとう!」とそれが5ドルにも10ドルにもなったりしたのです。

それは決してお金のことではなく、「喜びの度合い」を素直に金額で表現してくれ、また受け取るこっち側も相手が「どれくらい喜んでくれたのか」がひと目で分かりやすく、感謝の気持ちのキャッチボールとして日本では味わえないコミュニケーションです。
(「チップが少ないと喜んでいない」ということではなく、「多い」場合には確実に喜んでいる、という感覚です)

そしてシャンプーが出来るようになってからは、その後もカラーやブロー、パーマなども順に教えてもらい、そうしてできることが増えると、シャンプー以外にもたくさんお客さんやスタイリストさん達と絡めることが多くなりました。

違う国の人達、違う人種の人達、違う言葉の人達、と仕事を通じて関われることは、美容以外にも様々な気付き、学び、経験、などを与えてくれました。
いろんな人種の人達と共に働くことは本当に楽しかったです。 


そして働き出して1年ほど経った頃にはアシスタントとしての仕事が大方できるようになり、毎日たくさんのお客様が来るお店で僕は忙しく充実した毎日を送っていました。

そしてその間も、合間をみつけては最初の頃からの「一人大掃除」をずっと続けていました。

何かそれを止めることで「おごり」になってしまうような気がして、散々「NYで美容室で働けているこの奇跡は、全て神様のお陰だ」と神様に感謝した自分が、”おごり”によって今度は「バチが当たるのでは!?」という小心があったからですw


忙しくも充実したそんな日々が続き、そしていよいよ美容師になるに当たって最終段階である「カット」を教わる時がやってきました。
カットを教えてくれるのはオーナーであるトシさんです。

トシさんは僕がNYに行った更にその20年以上も前にアメリカに入国し、たった一人で、そしてハサミ一つでHairmatesを立ち上げた人です。

たった一人で渡米し、まだ他に先駆者がいない状況の中、日本とは毛質の違う様々な人種のお客様に対応できるようなカット技法を長年かけて独自で編み出し、そのカットと共にHairmatesを大きくしてきました。

そのカット技法を、トシさんが直接指導してくれるのです。

トシさんの教えは「早く」「正確に」「気持ちよく」

そして「正しい道具の使い方」 


自らの経験でいろんな髪質のいろいろなヘアスタイルをカットしてきたトシさんは、「やはり基本が一番」とその基本の大事さと、基本を生かす為の道具の正しい使い方、を何度も口酸っぱく教えてくれました。

そしてトシさんが毎回同じように言っていたのは、「教えるのはあくまでもカットの「基本」で、”ヘアスタイルの作り方”ではなく、「ヘアスタイルを作る為の基本」ということでした。

”ヘアスタイルはみんなそれぞれが「良い」と思うものを作りなさい” と自由な創作を後押しこそすれど、何か ”Hairmatesスタイル” 的なものを強要することは一度もありませんでした。

それよりも「何でも作れる基本的な技術」「基本から応用に転用できる考え方」が大事だといつも教えてくれました。

その教えは今でも僕が後輩にカットを教える時に大事にしている一つです。


そしてトシさんにカットを教わりだしてから数ヵ月後、僕は遂にヘアスタイリストとしてNYでデビューすることが決まりました。


▼アシスタント時代

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14.スタイリストになって

NYへ来て約1年半、まさか本当にNYで美容師ができるなんて夢にも思っていませんでした。

スタイリストになってからは、アシスタントの時以上に毎日の仕事が楽しくなりました。
でも技術的には駆け出しなのでもちろん余裕はありません。

特にカットは美容師の技術の中でも一番難しく、そしてまた奥が深いものです。

表現したい・提供したい髪型はたくさんあるけれど、それが実際にできるかどうかは技術次第。

それでも毎日Hairmatesにはたくさんのお客様が来るので、僕の未熟さでお客様をがっかりさせるわけにはいきません。
なのでスタイリストになってからは、アシスタントだった頃以上に毎晩練習をしました。

店を一歩出ればすぐ遊びに行ける環境がそこにはあるのに、来る日も来る日も営業後に毎晩毎晩、、、

この時、他の事には目もくれずただがむしゃらに毎晩毎晩練習に打ち込めたのは、大阪で一人暮らしをしていたころに散々遊びまわった過去も関係していたのかもしれません。

「もう十分遊んだな、、」

ぐらいに思っていたので、NYにいながら遊びたい欲はそれほどなく、美容師としての技術を磨くことに、より楽しさ・やり甲斐・充実を感じていました。

そしてスタイリストになり以前よりお客様とのコミュニケーションの密度が増えることで、NYに集まる世界中からの様々な人達と話し、時間を共有できることが、何よりも美容師の仕事を楽しく感じさせてくれました。


▼ My ”ブラックブック” に書いてもらったお客さん達のTag

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▼髪を切るわけでも無く、いつも 「Hey! What’s Up!」 と調子よくフラッっとやってきた Harry Jyumonji。ある時ヒゲを整えてあげたらお礼にこれを。

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▼あとで知ったけどなんとHarryはNYのレジェンドスケーター!
彼はアーティストでもあり、9.11の時にはこんなものも書いて渡してくれました。

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▼営業後

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▼Hairmates Midtown店

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▼Halloween

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▼Photo Shooting

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これ以外にももちろん、スタイリストになってからの4年間にいろいろな事がありました。

キリがないので特にここには書きませんが、スタイリストになってから1、2年たち美容師の仕事にも徐々に慣れ、気持ちの余裕ができるとまた以前のように遊ぶようにもなっていましたw

棲むところも、最初の地下暮らしから数ヵ月後に当時同じDowntown店で働く先輩と付き合うことになり、マンハッタンのアップタウンで同棲がスタート。

その後1年程でお別れし、次はアメリカ人のゲイ男性2人とルームシェアw。

この時が一番NYらしい生活だったかもしれません。
ルームメイトの2人はゲイでしたが、僕との接し方や普段の生活は全く普通。
ただセンスやお洒落感がハンパなかった。
部屋のインテリアから洋服、遊び方まで、これぞ「Newyorker」って感じでした。

その後はQueens → Brooklyn と引越し、Brooklynでは3階建ての建物の全ての部屋に友達が棲むという、毎日が修学旅行のような時も。


そして忘れもしない、9.11のテロ

倒壊したツインタワーからはそれほど遠くない場所にいた僕は、本当に間一髪助かったという感じでした。。。

命からがら逃げた、、というわけではないですが、何かが違っていれば犠牲者の内の一人になっていたかもしれません。。
本当に痛ましく、悲惨な出来事でした。。。

 
そして ”ブラックアウト” 
NYを含めたアメリカ東海岸一帯の全ての電気が落ちるという「大停電」。
街中の電気という電気全て、道路の信号も含めて一切の灯りが消えました。
これも一生に一度の経験でしょう。。

その時季節は暑い夏。

「部屋にいても暑いし何もできないし、冷蔵庫も電源入らないから飲み物も食べ物もダメになる。。  だったら、、、
外でパーティーだ!」 

と外(ストリート)に飲み物や食べ物を持ち寄ってそこかしこでパーティーw

なんともNewYorkらしいなぁ~と思いました。



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親には「3ヵ月だけ」と伝えて何も決めずに日本を出てからあっという間に4年。
楽しくて楽しくて、何より自分らしくいさせてくれるNewYorkが大好きでした。

でも日本から来てそのまま永住する人も多い中、僕には「いつかはまた日本に、、、」という想いもずっとありました。


そこで、ちょうど4年目の時にNYに棲むのはあと1年と決め、その後はNYを離れ日本に帰ることを決めました。

でも日本に帰ってどうするのか。

それを決める為に、僕は日本を出てアメリカに来てから4年目の夏に、初めて一時帰国をしました。


そしてその時に神戸で家族と、大阪で友達、と会った後、初めて東京にも行きました。


渋谷、六本木、銀座、池袋、、、その時1週間東京にいて、関西に住んでいた時からTVではよく聞いていたような場所をたくさん見て回りました。

そしていろいろ見て回った僕は、


「よし。次の挑戦の場は、、、東京だ」、、、、


と決めたのでした。



15.最後「後編」に続く

「NYに着いてからHairmatesと出会い、その後の5年間」の中編part2 を読んで頂いてありがとうございました!

冒頭にも書きましたが、間違いなく今までの僕の人生を180度変え、その後の人生を大きく変えたNYでの5年間でした。

良い美容師になれるようにと、「『人間力』を付ける為にいろんな経験をしてこよう!」と飛び出したことから始まったアメリカ生活ですが、それは美容師としてプラスになった経験だけに留まらず、

「挑戦」

「多様性」

といった、人生にとってとても大切な事を20歳~25歳の時に体験し、学べたことが何よりも大きな財産となりました。


そして人との出会い。


「どこで何をするか」

よりも

「誰と何をするか」


により重きをおくようになったのもこの頃からでした。。。


次は最後「NYを旅立ち、その後今に至るまで、、」のこの自己紹介文の最後である『後編』に続きます。。


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