見出し画像

愛好

※これは2019年6月7日にMediumで投稿していた記事です。

***

※1. これは学問的考察でも、研究課程の整理などでもありません。よって、学問的な根拠が不十分であると言えます。あくまで、個人の思考過程の一端として読んでください。
※2. この記事に関する批判、助言は許可されています。

最近、頭の中で煩いのが
“知を愛好する”
という言葉だ。正確に言えば少し違う言葉なんだけど(“見ることを愛好する”というニュアンス)、その言葉の意味するところをハッキリさせるためにも、あえて「知を愛好する」と置き換えさせていただく。

どうも、しっくり来ない。知恵を蓄えること、世界を理性的に捉えるために概念を得ていくことを、我々は愛好するというのだけど、そこが根源なのか?我々が知性を獲得したのは、その行為が善いものだからなのか?愛好の対象になるからなのか?

個人的には、違うと考えている。

“知を愛好する”のは、結果的にそのように適応していっただけではないのだろうか?

かつて知恵を得たために楽園を追放されたと、かの宗教の経典には書かれているが、裏を返せば知恵というものがあれば楽園に居なくとも生き延びていけると、古代から人類は理解していたということである。この世界は楽園からは程遠い。楽園の様態は宗教や思想、哲学によって様々であるが、大体は楽園に属さないものとして現世を考えている。そういう不完全な場としてこの世界を捉えているのが人間の共通感覚のようである。そして、そういった感覚を有した宗教を信仰していたり、日本においては潜在的な神道の信者としてその感覚を有していたりと、現世に関する感覚は古代より受け継がれている。あらゆる学問の系譜が重なり合って、複雑に絡み合っている現代において、現世に対するイメージはある程度のところで共通していると言えるだろう。よって、あくまで個人的な解釈ではあるが、我々人類はこの世界を危険な場として認識していることを前提とさせていただきたい。

さて、ここからが本題である。

先程のセンテンスで前提とさせていただいたことを踏まえて、これからの思考過程を読んでいただきたい。

結論を先に言えば、我々は知を愛好しているのではなく、無知を恐怖しているのである。頭の良い皆さんならば、この結論は単純に導き出せただろうけど、一応そう結論付けた過程も述べていきたい。

私が「知」という言葉を指す時、それが意味するものが「知識」ではない。知識の習得に秀でた者を指して「頭が良い」という人間が私の周りには多いが、そういう頭の良さのみを対象にしては考察の範囲が狭くなってしまう。そこで、「知」という言葉を「感性によって捉えられた“現象”を、論理的に体系化するための概念および思考形式」と定義したい。カントの『純粋理性批判』を理解できていない私には、アプリオリ(経験に先立つ)な認識なんてものは除外させていただきたい(カントの悟性(知性)にまで言及できるようになったころに、またこの類の記事を書きたい…)。

さて、我々が知を求めるという衝動に話をフォーカスしていく。基本的に我々にとってこの世界の全般は、未知の領域であった。なぜならば、我々が新しい概念を獲得していくにあたって、経験が伴う必要があるからである。経験とは個人の領域にあり、自らの経験の外側にあるものにはそれまでの経験から構築した想像物としてしか存在できず、その物自体に対する概念を有することは出来ない。そのうえ、しばしば経験の外側から与えられた害に関して我々は、生命の危機を覚える。その害に対する対処法を自らの経験のうちに導き出すことが出来ず、その後の害の進度(侵度)について想像を膨らませていくことしかできない。それも、今までの経験に基づいたものとしてのみである。経験外の領域であるがゆえに、その害の最終到達点がどこまでなのか知ることが出来ない。では、害に関して想定しうる最終解はどこなのか。恐らくそれは「死」であるだろう。たとえ、その害の最終到達点が死では無いにしても、経験的に導き出される最悪解が死である以上、我々はその恐怖から逃れられない。

※経験から導き出される最悪解が「死」である根拠は、我々の経験が持つ唯一の真理が“主体的真理”(デカルトの「我思う、故に我在り。」など)であるからである。この真理の論理的対偶として「死」が導き出される。

そのため、自己にとって唯一自明の真理に対応する想像物であるからこそ、それが我々に及ぼす影響は大きいのではないか?と推察している。

では、その「死」がもたらす恐怖から逃れる術は何かと言えば、「知」を蓄えるほかにない。そしてそれは、知を得るということが本能的に快をもたらすという論説以上の合理性がある。

本能というものを私は、感性領域に属しているものだと考察している。理性領域が後天的に獲得されるものに対して、感性領域は先天的に自己の中に存在している。もし知の獲得が本能に快をもたらすとするならば、感性領域の中に理性領域が包括されているという様相をもたらすか、理性が本能に対して快を与えるという逆の構図が見えてくる。こうなった場合、感性と理性の領域は、他の媒介を必要とすることなく行き来することが可能ということになる。しかし、通常は、感性と理性が互いに独立した相容れない領域で存在しているということは、疑いようのないことである。

(※その2つの領域を繋いでくれる作用が“美”であるというのが、現在私が大学で行っている卒論研究の対象「美学」で考察している点の一つです。)

さて、この矛盾が生じてきた為に、快をもたらすからというところに知の獲得の意味を見出すことを否定したい。

今回、このテーマに関する思考は以上とさせて頂きます。
今後もこの記事に関しては、(加筆を含む)修正を続けていきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?