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飲酒文化における内向外向の差異を通した今後への想像

ツイッター上でエニアグラムを通じて親しくなった人で、自分と同じく内向性の高い人がいる。タイプ6である彼はこれまで酒が担わされてきた社会的役割にさんざん困らされてきたらしく、酒に対していいイメージを抱いていない。

そのことは、私をどうにも悲しくさせる。

私は内向型の極致みたいな性格をしているくせに、酒がずっと好きだった。だが、酒が担わされてきた社会的な役割については、ほとんど無視を決め込んできた。私はあくまで個人として酒を好むのであり、趣味や信念や感性の合わない人々と無理に付き合うために酒を用いる、ということを徹底的に避けてきた。

何故なら、私自身がそのような飲酒に対して微塵の楽しさも見出だしえなかったから。一時の雰囲気で飲む量を競ってみたり、自分のペースで飲んでいたらもっと飲めと文句をつけられたり。そうした強要は一種の冗談である場合も少なくないが、そこまで含めてそれの何が楽しいのか、一切理解できなかった。

相手の欲望や要求に気を遣って酒を飲むぐらいなら、私は酒杯を放棄する。余白のない日々に張り詰めた心を互いに寛げるために飲む酒のためなら、私は貴方の心境にいくらでも配慮しよう。

こうした経緯も手伝って、むしろ私は、一体一ないしは三人・四人であれこれ語らいながら酒肴や料理の美味しさを無心に分かち合うような飲酒に、価値を見出だすようになった。

そこで、楽しくない酒の飲み方、ということを考える。魂の対話や、心の休息を目的としない飲酒。なぜそれが内向性の高い人間の多くにとって安らぎとなりえないのか。それは、あらゆる側面において同調を強要する。飲む速度、喋る話題、話す相手、注文する料理、食べる順序──そうした同調への抵抗感を、むしろ稀釈するために酒が用いられているのだとすれば、果たしてどうだろう。そのような同調の中では、個人や個性といった境界はまたしても削ぎ落とされていく。酒というのは、本質的には体験や情動を濃縮すべく用いられるものではなかったか────

‪COVID-19の爆発的流行によって、飲酒が集団におけるコミュニケーションの一端を担う、日本の旧弊ともいうべき文化が崩壊の一途を辿っている。‬内向性の強い人間としては非常に喜ばしい限りだが、本当に安心していられるのだろうか?

人間には概して反動というものがある。そこに内向外向は関係しない。COVID-19の渦中にあって、いまだ飲食店は政府および民衆の世論、社会の風潮によってその薄皮一枚で繋がるのみの首を締められている。合間合間に申し訳程度の規制緩和が入ることもあるが、ほとんど飲酒という文化の前提を履き違えた愚策に過ぎない。

(例えば、ラストオーダー19時までの間に仕事を終えて居酒屋に滑り込める労働者がこの社会にどれほど存在するのだろう?それで店はどれだけの稼ぎになるのだろう?)

さて、飲酒という文化と述べた。文化とは一面一面の連なりであり、ある側面のみを切り取ってこれが文化だと規定できるのならば、それは文化と呼ぶに値しない。即ち、私のような個人と個人の深層的な対話を求めた内向性の高い飲酒を文化と称するならば、先に掲げた外向性の高い、集団内における表層的な体験を生む飲酒も、当然文化と見なしてしかるべきだ。

無論のことながらそこに優劣はなく、ただ適性の度合いに差異があってどちらを好むか、どちらが楽しいかという単なる傾向が現れるに過ぎない。要点となる問題は、往々にして外向性の高い人々は内向性の高い人々が自分たちと異なった感覚を持ち合わせていることに気づかないという状況で、その外向性の欲求でもって内向性の欲求を、ともすれば侵掠することだろう。

外向的な飲酒文化において、合わせるのはいつも内向性の高い人々だ。しかし、内向性の高い人々が自分たちの内向的な飲酒文化の内側に外向性の高い人々を誘い入れることは極めて少ない。

彼らは自分たちが好む内向的な飲酒が外向性の高い人々にとっては必ずしも楽しいものではないということを、熟知している。自らが外向的な飲酒をまるで楽しめなかった、あるいは楽しめたが疲れ果てたという痛切な経験によって。

ここに非対称の構造があり、干渉する人々-干渉しない人々という構図が描けるだろう。

近い将来か遠い未来か、COVID-19が終熄するか一定の落ち着きを見せた時、外向的な飲酒が現在の自粛強要の延長線上で、控えめな調子で行われることがありうるだろうか。

私には、そうは思えない。恐らく、外向的な飲酒文化はCOVID-19を経て我々の意識の底に滞留した抑圧によって、COVID-19以前より激化するのではないか。

私の考えすぎと言われればそれまでだし、考えすぎであるに越したことはない。ただ、内向性の高い人間として、以上のような懸念を今から抱いておくことに、何か問題があるだろうか?

欲望には種類がある。それが重要なのだろう。


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