みず知らず

どこのメーカーだか分からない、見たこともないようなペットボトルの水を持っていたやつがいたので、「ラブホの水かよ」みたいなツッコミをしようとしてふと思いとどまった。さてこのツッコミはどれくらい伝わるものなのだろうか、と。

ラブホテルに、どこのメーカーだか分からない、見たこともないようなペットボトルの水が置いてあるというのは、ラブホテルをある程度利用したことのある人にとってはあるあるだと言っていいだろう。しかし今この場にいる人たちにとってどれくらいそれがあるあるなのかは測りかねる。ここにいるのはいい歳をした大人ばかりだ。恋人がいたことくらいはあるだろうし、そういうホテルにだって行ったことくらいはあるだろう……とは思うがどうだろう?そんな下品な場所に行くなんてとんでもないだとか、お金がもったいないだとかの理由でそういうことは家でする派の人も多いという話も聞いたことがある。ここにいる人たちはどうだろうか。

「ラブホの水かよ」とツッコミを入れた時点で、俺はそれを知っている側の人間だということを周囲に知らしめることにもなってしまう。ラブホに行く人なんだ、そこにどこのメーカーだか分からない、見たこともないようなペットボトルの水が置いてあることを知っている人なんだ。それを知られることは或いはマイナスな印象を抱く人だっているかもしれない。前述のようなラブホなんか行かない派の人にしてみれば、そんな不潔な場所に出入りする人なのねとか、あんな無駄に金のかかる所に行く馬鹿なのだと思われるかもしれない。それに万が一、この中に俺のことを好きな人がいたとしたら、私じゃない人と既にそういう場所でそういうことをしたことがあるのねとショックを受ける……なんてことだって有り得るかもしれない。逆に本当にラブホの水だったパターンもだって有り得るじゃないか。ラブホで飲まず、せっかくだからと持って帰ってきた水だったとすると、「ラブホの水かよ」なんてツッコミは相手のプライベートに踏み込んだ、デリカシーを欠いた指摘になってしまう。……総合的に考えるとやはり、「ラブホの水かよ」というツッコミは不適切なのかもしれない。

なんてことを考えているうちに、どこのメーカーだか分からない、見たこともないようなペットボトルの水をひと口飲んだやつは丁寧を蓋をしてペットボトルをテーブルに置いた。ツッコミのタイミングはもはや今ではない。あの時躊躇せずに、適切なタイミングで「ラブホの水かよ」とツッコミを入れていたら、それなりの笑いを取れていたかもしれない。俺は笑いを逃す愚かな選択をしたのかもしれない。10年経った今でも時々思い出す苦い思い出である。

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