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初めての邂逅

生きるということは経験を積み重ねることだ。40年も生きているとそれなりに人生経験も積み上がってくる。人生経験を重ねるにつれ、初めての経験に遭遇するという機会も少なくなってくるものだ。そんな中、今日はとても大きな初体験をすることになった。サンシャイン水族館に行って、メンダコを見てきたのである。

メンダコは深海に生息するタコの一種で、とてもかわいい。僕はメンダコがとても大好きで、メンダコグッズ集めを趣味にしているくらいだ。しかしながらメンダコは飼育がとても難しく、かつデリケートで、水族館でも長期間の飼育に成功した例はない。僕もこれまで生きているメンダコにお目にかかったことはなかったのだ。

サンシャイン水族館でメンダコが展示されていることを知ったのはツイッターだった。僕の身体に衝撃が走った。これは何としても見に行かねばならない。以前、サンシャイン水族館の深海展の時にもメンダコは展示されていたのだが、その時は会期の途中でメンダコは体調不良のため展示中止となり、そのままお亡くなりになっていたのだ。この機会を逃すと次はいつメンダコに会えるチャンスがあるか分からない。仕事納めてすぐ今日12/30の朝一番に会いに行くと決めた。サンシャインにメンダコがやってきたのは数日前。30日まで元気でいてくれる補償もない。僕はソワソワしながら今日を待ちわびた。

昨日の夜はドキドキしてなかなか寝付けなかった。こんなのは久しぶりだった。小学校の遠足の前の日のように、大好きな人と初めてのデートの前の日のように、狭いベッドをあっちへゴロゴロこっちへゴロゴロしながら眠りについた。真夜中に一度目が覚めて脚がつった。迎えた今日。穏やかな陽射しに恵まれたいい天気だった。しかし朝は寒かった。出かける前にシャワーを浴びようとすると、給湯器の配管が凍っていたらしくてお湯が出なかった。なんということだ。僕とメンダコの逢瀬を阻むんじゃない!幸いしばらくすると凍結は緩んだらしく普通にお湯が出てくれた。さっぱりとシャワーを浴びて、お気に入りのくじらのハンチング帽を被って出かけた。いざサンシャインへ!

池袋までの道中。僕はドキドキとワクワクで胸がいっぱいだった。やっとメンダコに会える。江ノ島水族館にいたホルマリン漬けのメンダコじゃない。本物の生きたメンダコ。僕がもうあと数年若かったなら、きっと子供のようにスキップをして飛び跳ねながらサンシャインまで向かっていたことだろう。分別のついた40代の大人であって良かった。せっかく水族館に行くのだから、誰か女の子でも誘うべきなのではないかと思わないでもなかったが、僕は自分がメンダコに会って正気を保っていられる自信がなかった。泣いてしまうかもしれない。メンダコの前で立ち尽くしてしまうかもしれない。そんな自分に女の子を付き合わせるわけにはいかなかった。僕はきっと隣にいる女の子よりもメンダコのことをより大切に思ってしまうだろう。そんなのは女の子にもメンダコにも失礼だった。真摯にメンダコと向き合うため、僕はあえて1人で行くことを選んだ。

年末ということもあり、サンシャイン水族館は家族連れで賑わっていた。いい歳したおじさんが1人で混ざっているのは場違いな気がして落ち着かなかった。そうだ、僕は幼い娘を亡くした父親なのだということにしよう。娘が好きだったメンダコに会いに来るために今日は1人でここに来たのだ。うむ、それなら1人でいるのも妥当だ。誰に言うでもないそんな言い訳を考えているうちに入場時間となり、僕は前に並んだ家族に続いて水族館へと入った。サンシャイン水族館は、入って割とすぐの所にあるイワシの回遊水槽が見どころである。丸い水槽をぐるぐると回るイワシは圧巻で、普段ならばここでぐるぐる回るイワシをゆっくりと見るところだ。しかし今日に限ってはイワシなぞ大事の前の小事。横目にぐるぐるイワシを見ながら僕は暗い通路を足早に進んだ。メンダコ。メンダコは何処にいるんだ。そして、程なくその時はやってきた。

クラゲコーナーの手前、ダイオウグソクムシの水槽と大きなミズダコの水槽との間に『それ』はいた。小さな水槽。ひらべったくなって砂に寝そべるメンダコ。時々気だるそうに脚先をぴくぴくと動かす。生きてる!呼吸をしている!ついに果たしたメンダコとの邂逅。長年待ちわびたその姿はどこか神々しくもあった。搬入時は2匹いると言われていたメンダコは1匹だけになっていた。環境の変化で体調を崩したのか、或いはもう亡くなってしまったのかもしれない。しかし1匹はまだ生きてここにいてくれた。僕はひたすらメンダコを見つめた。本来なら深海に棲み、こんな風に面会することなんて有り得なかっただろう。それが今ここで僕の前にいてくれている。それは奇跡だった。嬉しさと同時に、捕まらなければ今も海の片隅でひっそり幸せに暮らしていたんだろうなぁという思いもあった。こんなところに連れてきてごめんな。でも僕は君に会えて嬉しかったよ。そんな想いを心の中でつぶやくことが、愚かなる人間の出来るささやかな罪滅ぼしなのだと思う。僕は存分にメンダコとの出会いを堪能し、ついでにいろいろ見て、グッズショップでしこたまメンダコグッズを買った。ショップのおねいさんはお会計をしながら、「メンダコお好きなんですか?」と聞いてきた。あぁ、好きだとも。僕は今日メンダコに会うために来たのだ!熱い想いを適切なオブラートに包んで、慎ましい一般客のように当たり障りのない答えを返した。「そうですか。またメンダコがいる時にはぜひ来てくださいね」にっこり笑って商品を渡してくれたおねいさん。あぁ、言われなくともそうするとも。その時はまた今日と同じようにしこたまメンダコグッズを買って帰る。願わくばまたおねいさんに会えることを願っているよ。そんな想いを込めて、「ありがとうございます」と告げて僕は帰路に着いた。

生きるということは経験を積み重ねるということだ。メンダコを会うという経験を積んで、僕はまた1つ何かを得た。貴重な初体験はとても思い出深い素敵な時間になった。幾つになってもこうやって新しい経験をするということは感動的なものだ。いい一日だった。

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