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【究極思考00026】再びマニフェスト


「ART=・」structure00000sample size:postcard

 世界標準の現代アートワールドで、究極を目指すことが私のテーマであり、それは「Art=・」という一文のコンセプトに集約される。
 しかし、それはどこを起源に生まれたのだろう? それは、現代アートの歴史を自分なりに分析した結果であり、あって然るべき結論であると私は信じている。 私にとっての現代アートの究極化というコンセプトの起源は、やはりマレーヴィチの絶対主義の絵画にほかならない。 白地に白い四角形を描いただけの作品や黒い正方形の作品だ。 まさにこれぞ究極と思った記憶がある。 マレーヴィチの四角形の作品に、少し遡ってモンドリアンの直交座標、いや端的に直線を接続すれば、黒い直線だけの究極の現代アート作品となるだろう。 しかし、クラウスが明らかにしたようにグリッドが現代アートの隠れた基準として存在するように、黒い直線もまた現代アートにおいてはひとつの潮流として顕在化してはいないだろうか。 今では黒い直線は誰のものでもない共有化されたデータベースとして存在しているように思えるのだ。 誰のオリジナルでもない、ひとつの共有化されたデータベースとして、黒い直線は顕在化しているということ。 それはステラの黒いストライプに端を発してフランソワ・モルレにまで至っていると言って良いだろう。 黒い直線はカラーリングされて、ライリーやビュランに芳醇な技法を可能にさせてもいる。
 また現代アートの究極化として思い出されるのは、ほかでもないジャッドの箱状の作品であり、ルゥイットのキューブ(=ジャングルジムのような)作品だ。 それ以外のなにものでもない究極の現代アート作品と言えるだろう。 どこにも中心が見えない、究極とされた作品である。 特にジャッドの作品は、中心が見えないだけではない、作品の構造さえもが明確化された特異な現代アートの究極の作品である。 そしてコスースの「芸術とは芸術の定義である」というコンセプチュアルな視点を接続すれば、更に現代アートの究極化が見えて来る筈だ。
 今までの思考を私なりに総括して結論として見出されたのは、点である。 まさに「Art=・」これである。 世界標準の現代アートを究極化するなら、点の作品にほかならない。 それが究極の結論である。 同時に作品の構造さえもを明確化すること。 点こそ、究極化された現代アートのすべてなのだ。
 ただし、それは草間彌生の水玉やハーストのスポットとは、似て非なるものであることは、誤解を避けるためにも、あらかじめ指摘しておきたい。 草間の水玉は多様化するための恣意的な、そして同時に彼女の幻視によるものであり、究極化とは異なるものである。 ハーストのスポットペインティングも彼の中では、ひとつの技法であり、アートなのかデザインなのかを問うあからさまな手立てにほかならない。 彼のほかの作品と合わせて多様化された作品群のひとつにほかならないのだ。 果たしてそれは究極化と言えるだろうか?
 点を描くこと、そして同時に、作品の構造を可能な限り明確化すること、それが世界標準の現代アート作品の究極化なのである。 「Art=・」それが究極のすべてである。 究極化された、世界標準の現代アート作品である。

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