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【究極思考00002・00003】

【究極思考00002】

 もともと人づきあいが苦手で人脈構築も不得手で不器用な自分には、こと細かく画廊をめぐってオーナーと知り合いとなり営業力を発揮して、そんな売り込み自体が自分には向いていない。それ自体は自分にはどうしようもない。だからと言って現在のネット環境で自作が認知され評価されるなんてことは無理だろう。無理でないのならば、既に声がかかっていてもおかしくはない。ガラパゴス化した日本の美術界にあって、究極の世界標準の現代アート作品など、望まれることは稀少だろうし、既に60歳を迎えた初老の男に誰が興味を示すと言うのか。居場所なんかどこにもない。そうであるならば自分で作るしか方法はないのだが、20代や30代ならまだしも、60歳の還暦をとうに過ぎ去った自分に何が可能なのか。そう、この、無の状態から、空の状態から、究極の世界標準の現代アートを構築するしかないだろう。しかし、どうやって、。それこそが究極の問いではないか、。
 そこには点だけがある。究極として、まず実現されたのは、マレーヴィチの絶対主義の絵画である。白の上の白い正方形や、白の上の黒い正方形が、
まさに当時は究極の絵画として現前したのだと言える。そして、その究極性は、抽象表現主義やカラー・フィールド・ペインティング、イブ・クラインのモノクロミスム、ジャッドやアンドレのミニマル・アート、ソル・ルゥイットらのコンセプチュアル・アートを経て、究極化の度合いを深め続けたと言える。しかし、自分には、まだ物足りなかった。究極さにおいて物足りなかった。真の究極さは、単なる小さな点に結実する筈だと私は信念として断言したい。「ART=・」をコンセプトとして、デジタルで、アナログで、幾つも制作しているが、その真に究極の究極は、展示する壁に直接、点を描くだけだ。そこには点しかない。それが世界標準の現代アート作品の究極である。

【究極思考00003】

 10代の頃には、池田満寿夫や岡本太郎を読み、そこそこ影響を受けたのではなかったか。岡本太郎には、その独特な美術史や美術観、縄文土器や庭など日本の伝統の再認識など、美術の知識自体が、中学までで終わっていたので(高校は音楽クラスだったので、美術の授業自体がなかった)、非常に興味深く内容を追っていた筈だ。『今日の芸術』『日本の伝統』『美の呪力』などには特に当時は影響を受けた。また、池田満寿夫には、美術史や美術観だけではなく、その美意識や文体に影響を受けた。池田満寿夫には『複眼の思考』とか『思考する魚』など秀逸なタイトルが多かった。『模倣と創造』や『美の王国の入り口で』など美術を正面から扱った批評にも、また、芥川賞を受賞した『エーゲ海に捧ぐ』などの小説にも、興味深く読んだ筈だ。そして、1980年、「書泉グランデ」の美術コーナーで、偶然に手にした、宇佐美圭司『絵画論ー描くことの復権』を購入し、理解できていないにもかかわらず、かなりの影響を受け、考えさせられた。当時は現代アートと言っても、前衛と呼称される、フランス中心のピカソやブルトン、ベルメールやデュシャン、アメリカを中心にした抽象表現主義やミニマルアートなど、あくまでも断片的な情報を入手するくらいしかできなかったから、宇佐美圭司の記号論や構造主義を基盤にした論旨はかなり難解だった。それでも何度か読み進めるうちに、そのシステム論的論旨には共感を覚えはしたのだ。
 池田満寿夫の作品は、その初期の色彩銅版画による抽象表現的な作品を当時の自分としては最も評価していた。しかし、岡本太郎や宇佐美圭司の批評や文章に比べて、岡本太郎や宇佐美圭司の作品には自分としては評価を与えることはできなかった。それは、彼岡本太郎や宇佐美圭司の作品自体より、遥かに理論が勝ち過ぎたと感じたからかもしれない。特に宇佐美圭司のシステム論的な絵画批評を読み解くうちに、実際の宇佐美圭司の絵画作品には共感でき得なかったのだ。結局は、遠近法に替わる新たな絵画手法を追究した結果が、宇佐美圭司の作品に結実したとは自分にはまったく思えなかったということだ。批評と作品とが自分にはまったく乖離していたとしか感じられなかったからだ。
 その後、中村信夫『少年アート』や千葉成夫『ミニマルアート』などを経て、新たな批評を椹木野衣に読み進めることになる。1990年代には、椹木野衣による『シミュレーショニズム』『日本・現代・美術』『原子心母』など、それまでの美術批評とは時代を画する美術批評を展開した。この頃から少しずつ現代美術と言い現代アートと言い、その内実が明確になりつつあったのは確かだろう。1995年にWindows95が発売されブームとなり、マックと共に、インターネット環境やDTPおよびDTMへの道を切り開いて行く。

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