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神様にフェイントをかけた日

よく勘違いをする。早とちりで相手の言葉をうのみにしたり、地図の上下をさかさまにして反対方向に歩いていったりと、その種の話にはことかかない。じぶんでもその自覚があるので、とくに時間については用心深く、待ち合わせや出発の15分前には現地に着くようふだんから心がけている。

先日、駅で新幹線を待っていた。例によってゆとりを持って到着し、車で送ってくれた母親と待合室で話していた。9時54分の便の指定席を予約していて、9時35分になったところで母親が「そろそろ行く?」と訊ねてきたが、「10分もあればよゆうだよ」とぼくはのんびりかまえていた。振り返ると、母のこの一言は前兆だったのかもしれない。

40分になったので席を立った。ぼくの乗る便は「かがやき」で、改札の上にある電光掲示板にもその名が載っていた。母親に手を振って改札をくぐり抜け、短いエスカレーターを上がり、ホームの番号を確認しようともう一度電光掲示板を見上げた。

ない。さっきまで確かにそこにあったはずの「かがやき」の表示が消えてしまっていた。

泡を食ったという表現があるが、まさにこのときのじぶんがそれだった。二度三度と電光掲示板を見なおしてみたが、やっぱり「かがやき」の名前はなかった。恐る恐るスマホを取り出し、乗車券を予約したときの案内メールを開いてみる。「かがやき」の出発時間は9時46分になっていた。

乗り遅れた。そうさとった瞬間、とつぜんじぶんの立っている床板を外され、まっくらやみのなかに落ちていくような浮遊感を覚えた。

我に返ると、すぐに改札に戻って事情を駅員に説明した。駅員の対応は慣れたもので、「次の便の自由席なら乗れますよ」と言われほっと胸をなでおろした。次の便は1時間後の出発で、ぼくの後ろ姿から異変を察知してまだ改札に残ってくれていた母親とカフェに入った。幸い誰かと約束をしているわけでもなく、ぽっかりと空いた時間は優雅なお茶のひとときとなったしだいである。

このとき、ぼくの頭のなかには「神様にフェイントをかける」という言葉が浮かんでいた。脚本家で放送作家の小山薫堂さんの言葉で、意味は「日常に風穴を空けるために、たまにはいつものルーティンを崩してみよう」というものだった。

歳を重ねると、だんだんと用心深くなっていく。過去の失敗を教訓に事前の備えも周到になる。でも、それは一方で日々の生活の硬直化を招く。ひょっとしたら勘違いが多いのは、つい生真面目に生きてしまうじぶんに神様が与えてくれたギフト(贈り物)なのかもしれない。本人にかけるつもりもなく繰り出されるフェイントだ、神様だって見抜けるものじゃない。

これからも小さな勘違いを積み重ねて、日々を豊かにしていこう。そんなことを思った休日のひとこまであった。
(と言いつつ、翌日の会社での取引には入念な準備をして挑んだ。生活の勘違いは
じぶんの人生を豊かにしてくれるけど、仕事の勘違いは同僚からの不信につながるので、ご用心を!)

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