人工知能から、出会った神様を思う。
『人工知能が「生命」になるとき』という本を読んだ。この本では、東洋的なAIと西洋的なAIの違いを比較しながら、これからのAIが進んでいく道を探っている。私はこの本の中で、AIに対する人々の見方が東洋と西洋で異なっている点に興味を持った。
西洋では、「神の似姿として作られた人間」という人間中心の思想が流れている。その上で人間の知能を機械に与えて、人工知能を生み出すという視点がある。つまり、神ー人間ー機械という思想的な順位づけが存在している。
そのため、西洋のコンテンツでは、社会を人工知能に乗っ取られてしまうことへの恐れを、物語として表現している。『2001年宇宙の旅』の人工知能「HAL」やターミネーターシリーズの「ターミネーター」たちは恐れの象徴となっている。また、人工知能を生み出すとき、西洋では要素を積み重ねて、構築的に作り出そうとする。
一方の東洋では、電子の海から人工知能を見つける。『攻殻機動隊』の「人形使い」は、研究室から逃げ出した人工知能がネットの海で自己成長した存在で、その象徴である。
さらに日本のコンテンツを見てみると、『AIの遺電子』のヒューマノイドのように、人工知性と言う形で受容し、身近な存在としてどのような関係を結べるかを模索しようとする物語が多い。
私は人工知能が人工知性として受け入れられるのは、日本の「神」の性質が西洋と異なるためではないかと考えている。
西洋の神は、一神教において全能の神として存在している。しかし、東洋の神は、自然自身や災害を神格化した者、身の回りに共に居る者として存在している。私は今までに彼らの祀られている場所を訪れてきた。
たとえば、那智御滝は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の那智川中流にかかる滝である。この滝は熊野那智大社別宮飛瀧神社の御神体として祀られている。落差は133mもあり、自然の強さを示しながら、ただそこに存在している。
また、菅原道真は平安時代の貴族で、大宰府に左遷されたあと、現地で没した。その後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが祟りと認知された。彼は神格化されて全国にある天満宮で祀られている。
また、私の周りにも神様はたくさんいた。
実家の台所には神棚がある。祀られているのは、火の神様、水の神様、仏様である。また、床の間には氏神様の神棚がある。正月には家族で、餅やお神酒を神棚にお供えしてお祝いする。祖母は、これでも以前より減らしたほうだと話していた。
庭にでれば、そこには馬の神様がいる。年に一度、庭に線香を立てて、俵の形に握った「きなこおにぎり」を供える。
私の家系は長年農業を行ってきた。馬は農業を手伝う身近な存在だった。収穫した野菜は神様にお供えされた。来年もまた実り豊かでありますようにと、願っていた。
人工知能は、人間とは異質な存在である。そして、もしシンギュラリティに達すれば、私達は彼らを驚異として認識するかもしれない。しかしながら日本の私達であれば、自然にいる存在として受け入れられるかもしれない。あるいは神格化して、来年も平和な日々が続くようにと願う身近な神様として付き合っていけるのかもしれない。
私にはそんな希望がある。
参考資料
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