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デジタルネイチャーの小石

「質量の憧憬」を見た後、
『脱近代宣言』を読み直して考えたこと

小石がある。

小石を見たり、触ったり、投げて音を聞いたり、私は五感で感じる。
このために人間は身体を使う。(A)

小石を写真におさめる。

写真を印刷して、目で見る。石を感じる。(B)

写真を画像データとして、コンピュータに保存する。

画像データをディスプレイで見る。石を感じる。(C)

あるいは、データとして石を見る。
縦、横、奥行きの大きさ。
pixelにおさまった光の量。(D)

たくさん撮った写真データをもとに、ディープラーニングさせる。
コンピュータは、「小石」を認識する。
私たちは、ディープラーニングの結果をデータとして見る。(E)

ただ、私たちは、ディープラーニングによって、
コンピュータが認識した「小石」を完全に感じることはできない。現状は。

理由は、私たちは必ず、
「デバイス」を通してしか、認識することができないため。

小石そのものでさえ、「身体」を使わなければ、感じることはできない。
データなんて、「ディスプレイ」を通した上で、
「身体」を使わなければならないのだ。

さらに、「データをどの次元で見るか」ということにも、
人間特有の「バイアス」がかかっている。
コンピュータは人間の想像できない多次元(テンソル)で
データを見ているかもしれない。

この、人間が感じることのできない、コンピュータの「小石」を、
落合陽一さんは「デジタルネイチャー」と呼ぶ。

そして、デジタルネイチャーの世界では、それが理解できるらしい。
つまり、「デバイス」を通すことなく、コンピュータの「小石」を
感じることができるといっているのだ。

ただ、そう一足飛びに、デジタルネイチャーへ行くこともできない。
落合さんは、デジタルネイチャーを皆が感じられるように、
どんどん手を動かしている。

手を動かした結果が、落合さんのアートである。
「質量の憧憬」で置かれていた、
コンクリート、ブラウン管の「小石」、8Kディスプレイの「小石」は、
デジタルネイチャーの小石を切り取ったものだろう。

完全なデジタルネイチャーの小石ってどんな感じなんだろう。。


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