知らないことを知りたい。見たことない景色を見たい。

自分の欲望というか、楽しくなることは何かと言われれば、「知らないことを知ること。」「見たことない景色を見ること。」である。

小さい頃はテレビで、世界のことを伝えてくれる番組、教授さん達が授業をする番組を見ていた。

ある時からは、本を読むことにのめり込んだ。友人からなぜ本を読むのかと聞かれたことがある。当時は「楽しいから。」と答えていた。

いつからか、本を読むことに意味を見出そうとしていたと思う。何を読むべきかと調べては読もうとしてきた。果たして、どれだけが吸収されているのか。それを考えることも妙なのだろうか。

本を置いていれば、読みたくなったときに読める。しかし、どんどん読みたい本は変化していく。置き場を作れば、流れは停滞する。ダンボールか、無印の小さなカゴにでも本を収めて、そのときそのときに読みたいものに身を任せ、少しでも得られれば次へ行くべきだろうか。買っても買ってもまだ足りない。知りたいの欲は止まらない。文脈を求めて、背景を知りたくて、分かってないでしょと言われたくなくて。

旅は好きで、先にどんな場所があるかを探しては、「これは見た。」「あまり感じなかった。」「ゾワっとした。」と頭の中のチェックシートにチェックをひたすら重ねる。旅を楽しんでいるのか、ひたすら見た景色を集めに集めて「収集家」気取りをしているかわからなくなっている。しかし、これはアレに似ていると思うことは多くなって、いつのまにか分類しているらしい。

芸術展が開かれるというと、どんどん見に行く。これも風景集めのひとつであろう。こちらも似ているなと思うようになったり、ゾワっとするものを見つけたりすることがあった。

結構、あの好き嫌いも内側ではこっそりと出てきて、しかしこれは珍しい名画であるから目に焼き付けなければという心と対立したりすることが多くなった。まあ、そもそも興味がなければいかない。時間の制約があればこそ、好き嫌いが尊重しやすくなっているんだなと、遠くへ見に行く時は思ったりするなど。

現代美術はわからないけれど、それを求めにいっていると思う。わからないということは知らないということだ。どんどんわからないものが見たい。だが、どこからが美術で、どこまでが芸術なのか。

地方アートがどうこうという意見も聞く。しかし、自分の地元がやっていると微笑ましくなるもの。そして、代わりになるものを提案できるかというと、今はできないなあと思ってモヤモヤする。てか、地方に名画が来ることってほとんどない。大抵、東京か大阪。それを置いといて、地方アートどうこうというまえに、本当のアートを地方にもっと持ってきて示してからいってくれ!なんて言ったら贅沢なのかな。機会損失を減らすために早くモビリティを充実させて欲しい。新幹線とか今更だし、鉄道とほぼ同じ値段で空の交通手段を出してほしいもの。

人は会話の全てを聞くことができたとしても、実際に対面しないとわからないと思っている。雰囲気というのは、言葉を合わせないと自分の中に入ってこない。ある人は偉そうに見えたが実際は優しくて包容力があった。ある人は、語り口はさらに柔らかで、ときどき画面で見るよりも鋭さを出して、出番が終わればほがらかになる。ある人は、そのままにそのままで、自分が勝手に緊張していると嫌になる程かんじさせられる。

以上、戯言やら戯言やら。

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