父との思いで -入院から訃報まで-
先日亡くなった父との思いでをいくつかに分けて書いていく。
これが今年の夏の思い出だ。
とは言え、まずは思い出の前に入院から訃報までのことから書こうと思う。
父は最終的には肺がんで亡くなったが、病院へ運ばれたのは脳卒中がきっかけだった。キッチンに立ち牛乳を飲もうとした際、足が動かなくなったらしい。
令和4年7月24日午後7時、享年78歳。
数日前から肺という、呼吸に違和感があり検査をする予約をしていたらしい。結果、以前からのがんが肺へ転移していたらしい。前にも睾丸や咽頭にもがんがあり、数年ぶりに転移して顕在化したという感じのようだ。
がんは近年では”治る病気”と言われるようになったが命を奪われてしった。ここ10年くらい病気がちで白血病や心臓病も患っていた。
それでも酒もたばこも止めなかったし、むしろ酒量は増えていたと聞いている。その頑固さはぼくが知っている父親像とぴったりなので驚かないし、寧ろ天命を全うできたんじゃないかとさえ思っている。生きるために生きた、そんな感じだ。
6月下旬に母から連絡があった。冒頭の脳卒中で父が運ばれた翌日だ。
肺に酸素を取込む量が減ってきていて、数日持たないかも知れない、と。
すでにレントゲンにて肺が影が多くできていることは聞いていて、肺が機能しづらい状況は聞いていた。
すぐに仕事の調整を済ませて、翌日から帰省することとなった。
ただ最初に入院していた市立病院は見舞いへの規制が厳しく、病院の判断で最終的なお別れのタイミングでしか面会できないとのことだった。
その後、容態が安定したおかげで一週間の帰省はただの里帰りのような感じになってしまった。とは言え、急変に備えているため旧友との食事にできかけることもせずニートのような生活を送っていた。最低限、母と”もしも”に備えて銀行を回ったり、ぼくの家族が来た際に寝泊まりができる準備を進めた。一回目の帰省は父に会うこともできず、東京へ戻ることとなった。
一ヶ月あまりが過ぎ、姉からLINEが来た。
”今週末、面会できるみたいなので、帰ってきてほしい”
実は家族とは何となく疎遠になっていて、先日の帰省も10数年ぶりだったし、姉とのLINEも先月開通?したばかりだった。ちなみに母は携帯電話を持っていない超アナログ人間だ。
面会できるようになったのは、連絡が来る数日前にホスピス病棟がある病院へ転院したからだ。要するに肺がんは末期で治癒に向けた治療は困難だったので緩和治療に切り換えた直後だった。
今回の帰省はどちらかというと前回より気が楽だった。面会が目的だったし、もう少し生きられるだろうと根拠のない安心感をもっていた。
そんな安心感からか、すでに夏休みに入っていた息子とともに帰省することとなった。
息子はと言うと物心ついてから初めての飛行機ということもあり、最初は渋っていた。かなりのビビりなので。
とは言え、機上では大変楽しそうだったので良い経験になったと思う。
今回の帰省は、面会が目的だったので土日の二日間を予定していた。
予定通りに日曜の午後一で父と面会することができた。
すっかりやせ細ってしまったが父は父のままだった。認知症は進んでいるようだったが、家のことや母のことを心配していた。
姉とともに父の手を取り、心配はいらないから自分の体のことを第一に考えるように伝えられたと思う。
そして午前中にテレビで観た甲子園予選の話しで(結果的に)最後の笑顔が見れた気がした。
屈託のない笑顔が脳裏に焼き付いている。
少し時間をおいて母が面会したときには、ぼくと会ったことが曖昧だったようだけど、ぼくとしては満足な時間だった。
夕方、空港でお土産を買い、チェックインする直前に母から着信があった。
容態が急変したとのことだった。
急いでまずはカウンターへ向かい事情を説明した。担当の方は手際よくとりあえずのリスケともしもの際の払い戻しのついて丁寧に説明してくれた。
スカイマークの担当者様、ありがとうございました。
踵を返して、またまた快速エアポートへ飛び乗り。まずは病院を目指した。
しかし車中でLINEにて訃報が届いた。病院の気遣いもあり、母の到着を待っての死亡宣告となった。
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