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地下鉄構内は腐った小便の匂いがする。ホームのギリギリを歩いていた。涙が溢れ足が震え出した。決めた事は叶わなかった。ホームの中心へとヘロヘロと戻る自分が情けなかった。飛べやしなかった。飛べやしないのに、線路を見つめる度に鮮明に過るこの映像を、このイメージを誰か止めて欲しい。誰か止めて欲しい。ただやはり鉄の塊には圧倒される。その風圧や巨大な質量を感じさせる巨躯には人間を死へと至らしめる説得力があった。俺は震えながら帰路へ着いた。この家には時代遅れのブラウン管とこれまた埃っぽいスーパーファミコンだけがある。それ以外は昨日不燃ごみの日に全部捨てた。元から俺はモノに執着しない性分だから最後のゴミ出しは直ぐに終わった。まだ生活は続いていた。死に損ないのゲーマーにはコンティニューが必要だ。乾いたカートリッジに息を吹き込む。レア社のロゴマークが映し出される。俺は過去やモノに執着しないが思い出深いゲームをプレイする時決まって実機で無いと駄目という性質だ。過去の記憶はカートリッジだけが知っていた。あの時も今と同じ様に雨が降っていた。

彼の名前は覚えていない仮にAと呼ぼう。彼は昔から怖がりで日が落ちると独りで家にも帰れないほどだった。けれど俺と違ってサッカーが上手くて顔も端正だった。何処か弟の様でもあり、いつも何処か行く時は一緒だった。担任の教師が書き順にうるさかったあの頃、金の無い俺たちはよく遊園地に行って美味くもない団子を食べながら観覧車を横目に3DSを起動した。もちろん立体視は無しで。あの頃のゲームの体験版はすぐに回数制限が来てプレイが断絶されるか時間制限が設けられているかのどちらかだった。何も無い俺たちは何も無い事が楽しくて笑っていた。回数制限などものともしなかった。ある様で無い様なものだ。無限のコンティニューがあった。輝いていた。しかしどうしてだろう。人生とは不思議なもので製品版よりも体験版に近い。友情にも時間制限や回数制限がある事の方が多い。中学に進学する頃には俺とAの学力差は歴然としていた。Aは次第に俺と関わるのを辞め、得意のサッカーやその顔立ちで友人を増やしていった。俺はいつの間にか体育の時間を下を向いて過ごす様になり、嘲笑の対象になった。苦しい日々が続く様になった。そんな時に久しぶりにまた遊ばないかとAが言った。俺はこれが最後なんだと感覚的に理解した。何故その時スーパードンキーコングであったかは覚えが無い。次第に独りで過ごす事が増えた俺はネットに張り付いておたくの先輩方から自分が生まれる前の世代のゲーム機について教えを受けていたからだろうと思う。しかしながらこれまた不思議な事にAもまたゲームの懐古趣味持ちであった。父親の影響だという。俺とAはゲームセンターCXの熱心なファンで有野課長が忍者龍剣伝をクリアするあの回を2人で眺めたりしたこともあったのだ。そんな共通の志を持った2人の仲に時間や環境の変化やクラスでの立ち位置といったつまらない事が影を落として、その友情が引き裂かれるなんて誰が信じられるだろうか。いや、今思えばとても自然なことだった。しかし今でもこんな残酷な事は邪鬼王にだって起こせないだろうと思う。雨が降り続くあの日、楽しくドンキーとディディーを交代させながらコントローラを渡し合って、俺たちは笑っていた。帰り際彼は神妙な面持ちになってこう言った「また遊ばないか」凄く楽しい日だったしかし俺は知っていた。この友情はここで終わりだと何故か知っていた。Aは名残惜しそうに帰路に着く傍ら窓越しから俺を見つめた。俺は凄く寂しかった。この日は空が涙を流していた気がする。

どうも面白く無くてPOWERと書かれたスイッチを落とす。ジャングルの活気ある情景は幻のように消え失せ、眼前にはただ暗い部屋に差し込む微かな光だけが残った。Aのあの名残惜しそうな顔を思い出す度に俺はカートリッジを差し込むだろう。思えば俺は過去にもモノにも執着する情けない人間だった。

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