地下室のそのまた地下室にいる僕の手記

現在は夕方17時36分。バイト終わりにささきの森珈琲に来た。友人のKちゃんに会うためだ。Kちゃんはバイト先で知り合った大学2年生の女の子でスポーツ医学を学んでいる。彼女はいつもバイトでシフトが被ると気さくに声をかけてくれる。この前入れ替わりで小話をした際に、Kちゃんのもう一つのバイト先であるささきの森珈琲に来てほしいと言ってくれたので、今日行くことにしたのだ。店内は広々としており、複数の種類のカウンター席とテーブル席が点々と配置され、すべての席にコンセントがある。Wi-Fiもつながっており、PCで作業したい僕にとってはうってつけの場所だ。また、店内のいたるところに観葉植物や雑貨が置かれ、壁には絵が飾られている。
そのカフェで今、僕は何かを書こうとしている。しかし、これはただの口実だ。本当は彼女(Kちゃん)の出勤のタイミングまでどうしようかとそわそわしているだけなのだ。Kちゃんに対して特別な恋愛感情があるというわけではない。しかし、僕はいつも女の子の前ではかっこつけてしまう。これは男の性なのではないか。どんな男も女の子の前では何かしら格好つけてしまうのではないか。そんなことない、その女の子が自分の好きな女の子でもないなら、かっこなんてつけないというかもしれない。でも、それはその人がその人だから言えることに過ぎない。もし、君が今の僕の状況になったとしたら、それでも君は同じことが言えるだろうか。いや、君が君のまま僕の状況になるということではない。君が<ぼく>になるということだ。身体、性格、社会的なステータス、友人、それらを含むすべてが僕になるということだ。しかし、その人は僕に限りなく似ているとはいえ、あくまで君なのだ。そういう状況を想像できるだろうか。
理解できるだろうか。書いている僕も理解できているのかよく分からない。しかし、この問いが筋の通ったものであること自体は確信している。この問いは、根本的な別の問いの派生形である。根本的な別の問いとは何か。
それは、なぜ僕はかっこつけてしまうのかでもなく、「なぜ君は僕でないのか。」である。この問いの意味が理解できない人もいるだろう。だって、それは当たり前すぎて問うまでもないと思われているから。道端で急に「なんであなたは私じゃないの?」って聞かれたら、びっくりしてそのまま無視する人も多いだろう。逆に聞いてくれる人でも、そもそも問いの意味が理解できず、なんども説明する羽目になるだろう。
でも、理解できる人も一定数いるだろう。というか、僕の予想に反して、実はかなりの人が理解できるのかもしれない。
「なぜ君は僕でないのか」
また、もう一つの疑問が今浮かんできた。それはこの問いにおいて、君と僕を入れ替え可能かどうかである。さらにもう一つ浮かんできたので忘れないうちに問いだけ書いておく。それは君を複数形にすると、問題の質は変化してくるのかどうかだ。つまり、例えば君を他者とすればイメージがつくのではなのだろうか。僕はなぜ他の他者ではなく、この僕なのか。そうすればより一般的なというか、より普遍的な問いに答えられるような気がする。
いや、今僕がやっているのは永井均さんの真似事に過ぎない。というかほぼ剽窃だ。そして、他人が考えたすごそうなことを自分があたかも考えているように見せかけて、Kちゃんにあわよくば見せつけようと試みているだけの非常に空しい振る舞いだ。
僕は愚かだ。今もこれを書いているけど、僕の承認欲求によって書かされているに過ぎない。僕は僕の欲求をどうにもできない。欲してしまうことの支配不可能性。これは人間のある種原理なのかもしれない。
そして、考えすぎてよくわからなくなる。
僕の脳が小さいからか。僕は何時までこのカフェにいるのだろうか。もうKちゃんは出勤しているはずだけど、僕が愚かなために奥のカウンター席に座ってしまったものだから、彼女がいるのかどうか確かめることすらできない。だし、トイレにでも行くついでに確認すればよいものを、それすらもする勇気がない。僕は本を読んで自分が日々より優れた人間になっているという楽観的な考えを無意識にも抱いていたはずだが、まったくそんなことはないようだ。中学生くらいからずっと変わっていないのではないだろうか。僕は幼いころ、大人は悩みなんてなくてなんでもうまくやっていける人たちだと思っていた。でも、実際はそれと真逆だった。これは客観的事実ではないけど、主観的事実ではある。僕は確かにそう感じているのだ。
疲れてきた。書くのにも。カフェインレスコーヒーでも頼んで長居しようかと思っていたが、今はタコライスを頼んで、ここでちゃんと物を頼みましたよという口実をはっきりと作ったらさっさと帰りたい気分だ。疲れている。頭が痛い。早く寝たい。一人になりたい。もうどうでもいい。めんどくさい。こういう投げやりが頻繁にくる。もう消えたいという気持ちもわいてくる。でも、行動に移す勇気もない。未来を考えると消えたくなる。これって普通のことなのだろうか。未来を考えることは楽しいことなのではないか。でも、僕の未来は、これから社会に出ないといけない、彼女との毎日電話をこなさないといけない、憂鬱になることばかりだ。楽しくなるような未来を考えられないものだろうか。でも、妄想でもいいなら楽しいことを考えることは可能だ。でも、それが妄想であることがわかると途端にむなしくなる。現実がある限り、フィクションは慰めにしかならない。フィクションを逃避先として活用するのは愚策だろう。知らないが。

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