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発達障害はある種の能力だ

発達障害は、一般に、学習障害やADHD(注意欠陥・多動性障害)として知られており、他人とのコミュニケーションが苦手な人たちだと理解されている。その場の空気を読めない変わり者 、自分勝手で扱いにくい人たちだ、と。

私は、障害という名前が誤解の元であり、障害と言うよりは人とは違う”ある種”の能力だと定義したい。私たち当事者はその能力を理解し、可能性を信じ、活用しなければならない。それ以外に、私たちが生きやすい世界に身を置き、自分らしくあり続けることは不可能である。

400万年前のアフリカの大地において、私たちの祖先は森から出て草原に降り立った。その最初の一歩を踏み出すことができたのは、きっと私たちのように周囲から浮いていて慣習に囚われない者たちだ。私はそのことを誇りに思う。未知の世界に根拠のない希望を見出し突き動かされるのは私たちの無邪気な特権である。

大きな決断をするとき、いつも思い出すのはセミの一生である。セミは地上に飛び出したらわずか数日しか生きられないという。「地中にいたらもっと長生きできるだろうが、果たして幸せな時間であったろうか」と。夏の青空の下、大空を不器用に舞い、木々を渡り歩き、必死に生きる。その中で地中にいたら決して触れることのなかった多くの事柄に出会う。日々発見がある。試練もあるが幸福で充実した時間であるはずだ。少なくとも地中で一生を終えるのは後悔しかない。その一点で、エイッと地上に出るに違いない。

発達障害者の能力とは、黙々とプログラムのバグを見つけるといった、人と関わらない単純作業をこなす集中力ではない。安易な環境に囲い込まれるべきでもない。むしろ社会や他者の意図とは無関係にエイっと行動ができる、孤独を恐れない無鉄砲さと勇気である。それは自由な好奇心であり独創性の端緒となる。わからないことや興味があれば10日間でも100日間でも没頭できる探究心である。この他人とは違うこだわりが変化への原動力となるのだ。

ただ、それら発達障害者の能力が十分に発揮されたとしても、何の役にも立たないこともあるだろう。いっそう扱いにくいと思われるかもしれない。それでも、私たちは自分たちの特性(能力)の長所と短所を正しく理解し、その可能性を信じ、恐れずに活用していくしかない。活用し受け入れられるためには注意深く周囲を観察することも大切だ。コミュニケーション能力が低くて人の気持ちが理解できないならば、それこそ好奇心と探究心の出番ではないか。例えば、それは表情筋の僅かな変化の検出といったものかもしれない。自分だけの手掛かりであればよい。

表紙の写真はシカゴの街並みを遠くに臨むミシガン湖の湖畔である。5月になればクロッカスが咲き誇り、鮮やかな新緑の中、鳥のさえずりが心地よい。厳しい冬があればこそ、それらは美しく輝くのだ。コミュニケーション能力ばかりが重視される現代において、発達障害者は冬の時代を生きる単なる変わり者ではない。いつの時代も孤高の開拓者であり大化けできる変わり者なのだ。

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