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「おさんポ」

今どき、「捨て犬」なんて話もなかなか聞かなくなったけれど、
我が家には「元」捨て犬が暮らしている。

今は訳あってベランダに急ごしらえの小屋で我慢してもらっているのだが、
それももうすぐ終わりになるはずだった。

捨て犬を拾うまでの私たち夫婦は、自分で言うのもなんだが、
世間から見れば「ラブラブ夫婦」と言ったところだろう。

それでも、私と妻との間には子供が出来なかった。
私たちは特にそれを寂しいとも不幸だとも思ったことはないが、

いや、少なくとも私は思っていなかったのだけれど、

思いがけず捨て犬を拾った私が、困って妻に電話で相談したところ

「うちで飼ってもいいんじゃない?子供もいないんだし」

と、少々予想していなかった返事をもらい、
それでこの捨て犬だった「ポンセ」は私たちの家族となったのだ。

「ポンセ」という名は、私が少年時代に大好きだったプロ野球の助っ人外国人から頂戴した名だ。

ポンセはいわゆる「ミックス犬」で、
おそらくはポメラニアンと柴犬の間に生まれたのだろう。

ポメラニアンのような毛並みで、見た目は柴犬という、なんともチャーミングな外見をしている。

ただ、私たち夫婦がポンセを家族に迎えるには、ひとつ障害があった。

それは、現在住んでいるマンションが

「ペット不可物件」であり、

ポンセと暮らすにはここを出て行く選択肢しかなかった事だ。

引っ越すにしても新居を決めるには時間が必要で、

考えを巡らせた私は、マンションの管理会社に相談し、
ポンセをベランダで生活させ、決して部屋には入れないという約束で、
丸1ヶ月の猶予を貰うことに成功した。

それからというもの、「ペット可」であり、

尚且つ、我が家の経済事情に見合う物件を探すことに私は奔走した。
なにしろ時間は1ヶ月しかないので、正直焦っていたのだ。

必死で不動産屋から、ネットの情報、果ては知り合いのツテまであらゆる手を尽くしたが、

これがなかなか見つからない。

そんな物件探しに悪戦苦闘の毎日でも、
私にとって、ポンセと出かけるお散歩は楽しいものだった。
犬を飼った経験がなかった私にはポンセとのお散歩は新鮮で、

仕事から帰るとすぐにポンセの首輪にリードをつけ、
嬉々として散歩に出かける私を見た妻に、

「まるでデートに行くみたいね?」

とからかわれるほど、私はポンセとのお散歩を楽しみにしていた。

ある日、
いつものようにポンセとお散歩をしていると、
電柱に貼られた1枚の広告が目に留まる。

「ここから徒歩30分、空き室あり」

物件を探してはいたが、特に興味もなくその広告を眺めていたのは、

「ここから徒歩30分」

という距離のせいかもしれない。

しかし、そのまま読み進めると、

「ペット可」

の文字が私の目に飛び込んだ。

私は何気なく見ていた広告が突然自分事に変わったので、
食い入るように広告の詳しい部分にまで目を走らせた。

間取りは文句なし、家賃は今のマンションより少々上がるが、
それでも十分許容範囲と言える。

なにより、これまでかなりの物件を検索してきた私の目には、
こんな好条件の物件には2度とお目にかかれないとさえ思えた。

私はその広告を携帯電話のカメラで写真に収めた後、
家に帰ってすぐ妻に見せた。

妻は一瞬驚いたような表情を見せたが、
すぐに予想通りの笑顔で喜んでくれ、

私はと言えば、さも手柄を立てたような顔をしていたのだろう、
妻が私の顔を見て「クスッ」と笑ったのを覚えている。

私たちは早速「明日にでも不動産屋に行こう」と盛り上がり、
そして実際に次の日には契約を済ませ、3週間後の引っ越しに向けて準備が始まった。


この頃の私たち夫婦は、

「お散歩さんぽイント(通称おさんポ)」の話題で盛り上がることが多かった。

「おさんポ」とは、

各市町村とペットショップ協会が共同で実施している活動で、
ペットと散歩で歩いた距離をGPSで正確に計測し、その距離に応じてポイントが貯まるというシステムだ。

私はポンセを飼う事に決めた日から「おさんポ」に登録しており、
毎日貯まっていくポイントを妻と眺めるのもまた、
私にとって幸せな時間となっていた。

ポイントの使い道はと言うと、
ペットショップで売られている商品には大体使えるので、
我が家ではポンセのごはん代に消えることが多い。

他にはドッグランなんかでも使えると聞いたので、
いつか試してみたいと考えている。​


引っ越しが決まってからも、私とポンセの「デート」は続いたが、
ひとつだけ変化したことがある。

それは「デートコース」だ。

今までは近所をぐるっと回るだけだったのだが、
引っ越しが決まってからは、新居となるマンションまで足を延ばすことにした。

今までのコースからはだいぶ離れていたが、

「おさんポ」も貯まるし、
なにより私とポンセにとって、それは全く苦ではなかった。

新居の近くで目新しいお店を見つければ、
「引っ越したらこの店に来てみよう」なんて思いを巡らし、
私は引っ越しの日を、まるで遠足前日の子供のように楽しみにしていたのだ。

ところが、

雨の日だというのに、ポンセに合羽を着せてお散歩に出かけていた私に、ある問題が起きた。

それはいつも通り、
新居になる予定のマンション前にポンセと辿り着いた時だった。

茶髪で若い感じの男が、マンションの前に傘を差し立っていて、
私とポンセを見るなり鬼の形相をして、
ずかずかと大股でこちらに近づいてきた。

男は口を開くと、

「犬の糞、ちゃんと始末しろよ!」

と私に怒鳴りつけてきた。

念の為言っておくが、私はポンセの糞を必ず持ち帰るようにしている。

いつも「Amazon」で買ったお気に入りのマナーポーチを持っていて、
ポンセの糞を採取する作業を「楽しい」とすら思っていたくらいだ。

私は突然のことで呆気に取られていたが、言うべきことは言わなければならない。

しかし私が反論しようと思った矢先、

「次見つけたら警察呼ぶからな!」

と、男は捨て台詞を吐いて行ってしまった。

私はなんだか腑に落ちなかったが、濡れ衣を着せられたことよりも、

男が入って行った建物が、私たちの新居となるマンションだったことの方が気がかりだった……

翌日、雨は止み、気持ちの良い天気の中、
私はまた引っ越し予定のマンションまでポンセと出かけた。

すると例のあの男が、なにやらしゃがみ込んでいるのが見えたので、
なるべく目を合わせないように、男の後ろを通り過ぎようとしたその時、

「おい!何回てめぇんちの犬の糞拾わせんだ?あぁ?」

と、ドスの利いた声が男の方から聞こえた。

「いや、それはうちの犬の糞ではありませんよ」

と、今日は反論することに無事成功した私に、

「しらばっくれるんじゃねぇよ!証拠があんだよ!」

と男は言い、

続けざまに……これは私にとってかなりショックな事だったのだが、

男は自分がこのマンションの管理を任されていることを、鼻息も荒く告げたのだ。

なるほど、だからマンション前に落ちている犬の糞を拾っていたのか、と納得もしたが、

でもそれは決して!断じて!ポンセの糞ではない。

私は「なにかの間違いじゃないですか?このとおり、必ず糞は持ち帰っています」
と言って、お気に入りのマナーポーチを男の目の前に差し出した。

すると男は、

「うちのマンションの防犯カメラにちゃんと映ってんだよ」

と言って私の顔を睨みながら、

「証拠の映像を警察に持って行く」

とだけ告げ、そそくさとマンションに戻って行ってしまった。

これは困った……

警察に行かれることがではない、

引っ越し先の管理人が「あんな男」だという事実が、私の気持ちを沈ませたのだ。

家に帰り、男との事を妻に話そうと思ったのだが、
妻の方が先に

「どう?おさんポだいぶ貯まった?」

と聞いてきたので、私がそれに答えると、

「そんなに貯まったの?」

「じゃあー、お家でも買おうかしら」

と妻が嬉しそうに言ったので、

「家なんて買えるわけないじゃないか、バカだなぁ」と言おうとした私は、

妻が言っている「お家」とは、
ポンセの「お家」だという事にすぐ気づき、

苦笑いしながら、男の話は胸にしまうことにした。

そして次の日からも、私とポンセはマンションまでのお散歩を続けた。

「なにも後ろめたいことはないんだ、今度絡まれたらもっと強く言おう」
と心に決めていたこともあって、

私はポンセとのお散歩を今まで通り楽しむことが出来た。

しかし、あの日を境にすっかり男の姿は見かけなくなり、
私は、「きっと濡れ衣が晴れたのだろう」なんて悠長に考えていた。

いよいよ引っ越しまであと1日となり、
私の頭の中からは、すっかりあの男の事は消えていたのだが、

今の住居での最後のお散歩だというのに、
あろうことか、あの男と出くわした。

男の顔を見た瞬間、「あぁ……明日からはこの顔を見る機会も増えるのか」と少々気が滅入ったのだが、

これからはうまく付き合っていかなきゃならないんだ、

と自分を奮い立たせ、

私は自分から男に声をかけることにした。

しかし、こちらを見る男と目が合った時に私は、

濡れ衣がまだ晴れてなんていないことをすぐに悟った。

なんと言うか、殺意さえ感じる目で私を睨みつけているのだ。

「こんにちわ」

「実は、明日からこちらのマンションでお世話になることになりました」

そう言った私に男は、

「お前いい加減にしろよ!今日こそ白黒つけてやる!こっち来い!」と言って、

私が握っていたポンセのリードを乱暴に奪い取った。

「あっ!」

私が取り返す間もなく、男はポンセを連れてマンションに入って行ってしまった。

ポンセが抵抗することもなく男について行ったことはショッキングな出来事だったが、

今はそんなことを言っている場合ではない、
私はすぐに男の後を追いかけた。

男が入って行ったのは管理人室のようなものなのだろう。

男が入って行ったドアを見て、

「参ったな……」

と私が呟いたのは、
私たちがまさに明日引っ越そうとしている部屋は101号室であり、
それは管理人室の隣りだったからだ。

マンションの1階エントランスの横にあるそのドアを開けて、

私は、「すみません!うちの子返してください!」
と、少し怒気を込めて叫んだ。

すると奥から、

「早く来い!こっちで防犯カメラの映像を確かめろ!」
という男の声が聞こえた。

語気は強いが、少し音量をセーブしたような声は、
それなりに管理人という立場をわきまえた人物のそれであり、

「もしかしたら話し合いの通じる相手なのかもしれない」という、
淡い期待を私に抱かせた。

私は靴を脱ぎ、恐るおそる部屋の中に足を踏み入れた。

部屋は、玄関を上がってすぐのリビングを除いては2つしかなさそうだ……

日も落ちかけて暗くなった部屋の中、
私は、おそらく男が見ているモニターのものであろう明かりを頼りに、右手の部屋に入った。

モニターの前には男と、その傍らにいつの間にかリードを外されたポンセが大人しくお座りをしていた。

「これを見ろ!間違いないだろ!」

男が再生ボタンを押すと、見慣れたマンション前の通りが映し出される。

しばらくその映像を眺めていた私は、次の瞬間自分の目を疑った。

「え!?」

いや、そんなわけはない、そんなわけはないのだが、
モニターに映し出されたのは、

ポンセ!?……いや!……ポンセによく似た犬だろうか?

映像が記録されている時刻は昼間の2時くらいだ、
だからポンセのはずがない!
私がポンセと出かけるのは早くても夕方の5時なのだから!

映像の続きを見ていると、最初はポンセのような犬しか映っていなかったのだが、

徐々にモニターの中の犬が移動して行くに連れて、リードを持っている飼い主の姿が映し出される。

「!!!」

私は全身の力が抜けるのを感じた。

画面に現れた飼い主は……見間違うはずもない……

それは紛れもなく私の「妻」だった。

私の知らないところで妻はポンセとお散歩をしていた。

それはいい、

だがなぜ、私には一切そんな素振りを見せなかったのだろう?

それになぜ……なんでこのコースなんだ?

もしかしたらポンセが、私と通い慣れたコースに妻を誘導したのだろうか?

色々な考えが頭の中を巡り、私は放心状態だった。

ただ信じられないという思いでモニターを見つめているだけの私は、

背後の気配に気づかなかった。

なにかが首に巻きついた感触。

私の首は縄のようなもので、迅速に、しかも抗えないような力強さで締め上げられた。

私は今殺されようとしているのか?

「殺されるようなことをした覚えはない!」

そう叫ぼうにも声が出ない。

意識が遠のき、視界が狭まる。

「死んだ……」

と私は感じたが、すんでのところで私の首を絞める力が緩んだ。

「ドサリッ」

私の体が床に崩れると、しばらくして奥の部屋から、

「終わった?」

と聞き覚えのある女の声がした。

その部屋の扉がゆっくりと開く、

私は、扉の向こうから今にも顔を出そうとしているのが誰なのか、もうわかっていた。

声の主が顔を晒す。

見慣れた顔を、初めて訪れた、しかも思いもよらない場所で見るのは、

なんだか夢か幻でも見ているような現実味のない光景で、

私を殺そうとしている男の部屋から出てきた女はまるで他人のようだったが、

それは「妻」だった。

もう何がなんだか思考が追い付かない、頭の中はぐちゃぐちゃだ。

いったい何が起きているんだ。


まだ息をしている私を確認した妻は、
いたずらな笑みを浮かべて、私の方に向かって歩きながらこう言った。

「おさんポがね?欲しかったのよ、わたしは」

(え?……)

「あなたといても一生手に入らないでしょ?」

(????)

おさんポ?そんなものの為に私は今殺されかけているのか?

喉もつぶされ、なにも声を発せない私に妻は、

「わたし、この人の子供を産むの」と男の方に手の平を広げて言った。

私はその言葉を聞いた瞬間、

(あぁ……)

と、思い出した。

私たち夫婦には縁がないと思い、これまで気にしたこともなかった。

少子化が進むこの国で、昨年から導入された制度……

子供をひとり産むと、
都内でも家を買えるくらいの「お祝い金」と交換できるポイントが貰える制度。

お産ポがね?欲しかったのよ、わたしは」

妻はまた同じ言葉を繰り返した。

「離婚も考えたのだけど、浮気したわたしたちの方が慰謝料を払わないといけなくなるじゃない?」

「イヤよ!そんなの絶対にダメ!せっかくのお産ポなのに」

なるほど、妻は浮気相手の部屋にポンセを連れて足繫く通っていたわけだ、

とすると、ポンセにとってあの男は「はじめまして」ではなかったのだ。

ポンセが抵抗せずに男について行ったことも、たった今納得がいった。

「あなたがこのマンションを見つけてきた日、わたし思わず笑っちゃった」

「だってあなたったら、わたしの思う壺なんだもん」

妻がそう言い、私はあの日の妻の笑顔を思い出していた。


「愛する妻に浮気され、引っ越し予定の部屋で自殺……っと!」

「あとは、隣の部屋にさっきと同じコレで、こいつを吊るして終わりだな」

妻が話している間ずっと黙っていた男が、そう言いながら、こちらに近づいてくる。

手に持っているのは……ポンセのリードか……


もう、なにもかもどうでもいい……

「ワオゥン……ワオゥン」

ポンセがご飯をねだるときの鳴き声がする……

それは私の鼓膜に届いた最後の声だった。


ーーーーーー了ーーーーーー

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