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「バスルームの画家」

「今回も素晴らしい作品ですね! 先生」

何もわかってない……いや、知らないくせに、

北島という名のこの若い画商は、
いつも上っ面の褒め言葉を掻き集めてくる。

「この絵に描かれている人物の目からは覚悟が見て取れます」だの、

「少女の物憂げな表情は、よく晴れた空の色との対比が云々」だの……

きっとこの男は、昔から自分が馬鹿だと思われるのが嫌で、
知ったか振りばかりして生きてきたからよく喋るようになったのだろう。

そうでなくても、絵描きに、
さもわかった風な口調で美辞麗句を並べ立てれば嫌な顔のひとつもされるだろうに、

こと私に関して言えば、北島が私の絵をわかっていない事は自明の理だ。

なぜなら、私には絵に込めた思いなど全くないのだから。

「画家が自分の絵にそんな事を言ったらおしめぇよ」

と言われるかもしれないが、
とっくに「おしまい」なのだ、私は画家として。

美大を卒業して、多くの同期達が絵で食っていくことなど諦めて行く中、
私は絵にしがみついた。

23年間、私の絵は誰に評価されるわけでもなかったが、
描くことをやめようとしなかった。

親が残した財産を食い潰し、親が残した築38年の家に引き籠り、
絵を描くことしか出来ない私はただひたすらに描き続けた。

そして、私は気づいた。

薄々は気づいていたのだが。

私に人を感動させる絵、ましてや売れる絵など描けないのだと。

これだけ長年絵を描いて来て、せいぜい

「お上手ですね」

くらいの誉め言葉しか頂戴したことがないのだから。

この歳になってやっと、画家としての成功というものを諦め、
私は自分でも不思議なのだが、気が楽になった。

もう今さら絵描き以外の事はできないが、
この家や土地を売った金で絵画教室でも開いて、細々と生きて行けば良い、

そんな覚悟が芽生えてからというもの、私は絵の描き方を変えた。
描き方を変えたというより、誤解を恐れずに言うならば、

これは「模写」だ。

するとどうだろう、私の絵は嘘のように評価され始めた。

今まで一度たりとも受賞などしたことがなかった私の絵は、
その日を境に、様々なコンテストで賛辞を受け、受賞していった。

私は「模写」と表現したが、これは決して盗作とかの類ではない。
そんなことをすればこの情報社会でバレずに過ごせるはずもなく、

あっという間に非難されて、美術界どころか社会から抹殺されてしまうであろうことは引き籠りの私でも知っている。

では私がなにを模写しているのかと言うと、
それはバスルームのタイルに浮かび上がる

「模様」だ。

私の家は前述した通り、築38年の古い家である。

バスルームなんて言葉を当てはめて良いかどうか、
我が家の「風呂場(こっちの方がしっくりくる)」は濃い青色のタイルで四方が囲まれているのだが、

湯船に浸かってそのタイルを眺めていると、
湿気でタイルに様々な模様が浮かび上がる。

それは人が見ればただのタイルについた小さな水滴の集合体でしかないが、
私はその模様を見て、

「あれは少女の顔に見えるな」とか

「こっちは滝のように見える無数の首吊り死体だ」とかの、

おかしな空想を膨らませて眺めるのが日課だった。

そしてある日、私は突飛な発想で、この模様を模写することにした。

誰かの作品ではないのだから盗作にはならない。
しかし私の中から湧き出てきたイメージというわけでもないから、

ほんの落書きのようなつもりで描いたのが始まりだった。

模様を眺め、時には写真に収め、私の目に映るままに描いていく。
色なんてものはあったりなかったり、

その模様からイメージできれば、色を付けることもあるが、
なにしろ相手は「青いタイル」に浮かぶ「白っぽい模様」である、
そもそも色鮮やかな絵になんてならないのだ。

それでも私の絵は売れに売れた。

しかし絵が売れるほど、なんだか後ろめたい気もした。
私の才能ではないのに、高額で取引されていく絵は、

まるで盗んだ品を質にでも入れている気分だ。

私の絵を見て、まさか

「風呂場の湿気が作った模様」

だなんて気づく者などいないのだから、気に病む必要もないのだが、

画家としてのプライドがもし私にあるのだとしたら、
それがこの「罪悪感」の正体なのだろう。

「先生」

なんて、こそばゆい呼び方をされるようになって何年経ったか、
それなりの財を成し、メディアへの露出も増えた頃、

私は両親が残した築38年の家を引き払い、
「テレビに出ている画家先生」が住むに相応しい家を購入した。

バスルームの四方は、あの青いタイルと同じものとはいかないが、
なるべく似通ったものを選んだ。

なんと言っても私の生命線。
あれがなければ絵が描けなくなってしまうのだから、
その辺は抜かりない。

私が住んでいた築38年のあの家はというと、
「有名画家が育った家」として、競売に出たが、

なんと、競り落としたのはあの「北島」だった。

「先生が育った家を守るのは僕の仕事ですよ! 」

また何を言ってるんだか、どういう意図があるのかもわからないが、
北島が家主なら、時折私がお邪魔して懐かしむのも不都合はない。

どうせ私に気に入られたいだけで購入したのだろうが、
私は特に嫌味を言うでもなく、北島に

「キミに頼んだよ、私が育った家を」

と、少々大袈裟に言って見せた。

その時の北島の顔と言ったら、

「馬鹿丸出し」という言葉がよく当てはまる、

幽霊でも見たように目を見開き、
げんこつが入るほど口を開けていたのが印象的で、
今でも思い出しては吹き出してしまうのだから、
家を売った甲斐もあったってものだ。

新居への引っ越しを済ませ、
私はしばらく絵を描かなかった。

新しい家での生活を楽しむことに忙しく、
気が向いたら描けばいい……なんて思っていたところ、

北島から催促の電話がやってくる。

「あんまり先生が絵を描かないと、私が画家になっちゃいますよ! 」

なにを馬鹿なことを……

北島は画商になる前、画家を目指していたらしい、
それは画商という職に就いた者によくある通過点らしいが、
画家を諦めた奴の終着駅くらいにしか私は思っていない。

それでも若くして才能がないってことに気づいたのだから、
その点では私よりも有能なのかもしれない。

北島に急かされたからというわけではないが、
私は久し振りに「描く」という衝動に突き動かされた。

やることは決まっている、

「風呂に入る」

もうすでに体に染みついたルーティンのように、
携帯電話、メモ帳を持って私は沸かしたばかりの風呂に入った。

身体を流し、頭を洗い、髭を剃る。
いつもの「作業」をこなしてから湯船に浸かる。

焦らなくとも、そこには無限の世界が広がっているのだ、

ゆっくりと湯の温もりを感じ、
のぼせる前に、ただ四方の壁のどこかを見ればいいだけのこと、

思えば、この家に越してきてからまだ、

「絵を描く」という観点で壁を眺めたことはない。

私の中で期待が膨らむのがわかる。

子供の頃、
デパートの閉店前に流れる「蛍の光」を聞いた時のような、
なにか下腹を刺激される妙な感覚が私を襲う。

これは私が、「わくわく」した時に必ずと言っていいほど感じる、
変態的な感覚なので誰かに理解して欲しいとは思わない。

この妙な感覚を楽しみつつ、ゆっくりと壁を眺めた。

そこには、

森の中でイボだらけの鼻を長く伸ばし、
身体からキノコを生やした化け物が、
眠っている美しい少女の髪をパスタに見立て、
「シェフの気まぐれパスタ~森のキノコを添えて」を食している模様か、

あるいは、髑髏に手足が生えたように見える昆虫が、
たくさんの罠を張り巡らし、旅人を捕らえる瞬間か……

眼前には、私が想像だにし得ない、奇想天外な絵が描かれている。
そして私はそれを模写するだけ……

のはずだった……

だが、目の前のタイルはなにも生み出さなかった。

冷たく!

青く!

白く!

私がどれだけ狼狽したかわかるだろうか?

何もない!水滴をまとった変哲もないタイルが存在するだけ!

例えるなら、最愛の恋人が植物状態になったとでも言おうか。

「また日を改めて試そう」

そんな考えは浮かばなかった。

絶望的に、確実に気づいたのだ、

以前の家のタイルは古かった。
恐らく長年の湯垢や、その他の私にはよくわからない汚れが、
人間の視力の限界を超える世界で、

「凹凸」を作り出していたのだ。

その凹凸に沿って付着した水滴が、
私に想像力を掻き立てる不思議な模様を見せていたに違いない。

このままでは、何も絵を描けなくなる。
いや、「売れない絵」しか描けなくなる。

あの風呂場が存在する築38年の家は、
両親が残してくれた何にも代えがたい「財産」だったのだ。

愚かにも私は自らそれを手放した。

深い後悔と同時に、
あの家を競り落としたのは「北島」なのだと思い直す。

そうだ!北島から家を買い戻せばいいだけのことじゃないか!

なんだ、そんなことなら容易い。

私の頼みとなれば、北島は二つ返事で了承するに決まっている。

あいつがもしも、万が一、渋るようなことがあれば、
この家と交換条件ということでも良い。

最近、バツイチで連れ子のいる嫁さんを貰った北島は、
この条件に飛びつくだろう。

十分な勝算を確信した私は、
なにも生み出さないタイルに悪態をつきながら、
持ち込んだ道具を手に、風呂を上がった。

冷蔵庫から缶ビールを取り出し呷る。

一息ついたところで、北島に電話を入れると、
たったのワンコールで聞きなれた声が聞こえた。

「先生から電話を頂けるなんて珍しいですね?」

ああ……ああ、なんとも面倒な応答だが、

私は、「北島君に折り入って相談があるんだが」

と切り出した。

「…………はい!なんでも言ってください!」

私は一瞬だけ存在した沈黙の時間に、
北島があの「馬鹿面」をしていたのだろうと想像して、
吹き出しそうになるのを我慢した。

「いや……少々言い難いのだけど、その、君が今住んでいる私の育った家を返してはくれないだろうか?」

敢えて私は「申し訳ない」という気持ちを込めた芝居で、
北島にお願いをした。

「え?」

「いやいや、もちろん!君が買った時の金額以上は出す」

「先生、何かあったんですか?」

「いや、ただ、やはり育った家が恋しくなったと言えば納得してくれるかな…」

「……」

なんだよなんだよ!私の予想では二つ返事のはずだったのに、
北島の奴やけに渋るじゃないか!

「キミが良ければ、私が今住んでいる新築の家と交換ということでどうだろう?」

これだけの好条件はないぞ、築38年のボロ家と、
新築の7LLDKの豪邸。

比べようもないだろう、
お前にとってそのボロ家は特に価値もないのだから。

態度とは裏腹に、勝ち誇ったような気持ちでいた私に、

「先生……いくら先生の頼みと言えど、お断りさせてもらいます」

耳を疑う返答が聞こえた。

「は?」

「失礼を承知で言いますが、先生は独身ですから、住居が家族にとってどれだけ生活に密着しているかわからないのでしょう」

おい、なんで私が北島に説教じみたことを言われているんだ?

「息子はすでに新しい学校に馴染んでいます。妻も、子供の親たちとの親交を深め、地域の行事なんかにも参加しているんです」

そんな些細なこと!問題になるだろうか?!

私はそう思いながらも、
思ったことを口にすればこの交渉は破綻すると感じていた。

「無理を承知で頼んでいるんだ。情けない話、創作活動に支障が出ている、この通りだ……頼む!」

我ながら思い切った演技である。
私はこれまで北島に頭を下げたことなどない。

だが今はそんなことを言っている場合ではないのだ。
北島は私の頼みを断れないはずだと高を括っていた。

しかし北島の答えは「NO」だった……

「先生らしくないですよ!どうしたっていうんですか?!私が力になれることなら、家のこと以外はなんだってします!」

なぜだ?私には理解できない!

これだけの好条件だぞ!

尊敬し、また商売道具でもある「私」の意に背いてまで、
彼が断わるだけの理由を私は見いだせなかった。

「わかった……また話をさせてくれ、今日はすまなかった」

私は愕然として、電話を切った。

北島を追い込み、この業界から締め出す方法を模索したりなどしたが、
それでは永遠にあの家は取り戻せない。

どうしたら良いというのだ……

その時ふと、

「あんまり先生が絵を描かないと、私が画家になっちゃいますよ! 」

あの時の北島の言葉が響いた。

北島……気づいているのか?……あの家の価値に……

もう私などお払い箱で、かつて目指した画家に返り咲こうとしているのか!

それも! 私の! 盗作で!

許さない!それだけは許さない!

殺意が芽生えるとはこういうことか。

頭の中を悪魔に支配されたように、
私は北島を死に至らしめる様々な方法を巡らせていった。

だが……

なぜだろうか、北島が私に結婚の報告をしに来た日のことがその時、
脳裏に浮かんだ。

あの「馬鹿面」をさげて、
本当に嬉しそうに私の家まで駆けつけてきたあの日を。

思えば、北島は嬉しいことがあった時に、
必ずあの顔をしていたように思う。

聞けば、プロポーズが成功して、
普通ならそのまま良い雰囲気でデートを続けるだろうに、
彼女とすぐに別行動を取り、私に報告をしに来たのだという。

私は、「迷惑な奴だ」と思いながら、
上っ面の祝福の言葉を投げたことをよく覚えている。

それからの彼は、すでに物心ついていた嫁さんの連れ子と、
「本当の親子になります」
などとドラマみたいなことを言って、
毎日そのつまらない進展を私に話したものだった。

そんなことを思い出していると、

スッ……と憑き物が取れたみたいに、私の中の殺意が潮を引いた。

人を殺すなどと考えたこともなかったが、
間違いなく私は今、「人殺し」になった。

頭の中で何度も何度も北島を殺した。

湧きあがる衝動を抑えることも億劫なほど、殺意に支配されていた。

私は自己嫌悪に陥ったが、
それで問題が解決したわけではない。

「絵が描けなくなる」

それだけでは済まないのだ。

北島は私の秘密に気づいている。

その事実は、
私がこれまで受けてきた賞賛をすべて無に帰す可能性があるのだ。

北島が画家としてやっていくのなら、私は苦渋を飲んで我慢するしかない。

だがもし、彼が画家ではなく、私の秘密を暴露する本でも書いたなら?

その可能性は十分にある。

なにしろ「秘密」は私との共有なのだから、
彼は「画家になる」などという諸刃の剣を抜かないかもしれないのだ。

そうなれば、これまでの私への賛辞はすべて罵声へと変わり、
私の精神を切り裂くに違いない。

耐えられない。
この歳で手に入れた物が、音を立てて崩れていくのが、
まさに「音」となって聞こえた気がした。

もしかしたら私が死ねば、北島はなんの気兼ねもなく、
「私の弟子」として、あのバスルームに広がる世界を絵にし、
私の意思を受け継いだ画家として生きていくのではないだろうか?

そんなことを考えれば、結論は死へと加速して行く。

死後にその価値が認められた画家も幾人かはいるじゃないか。

フィンセント・ファン・ゴッホ

アンリ・ルソー

アメデオ・モディリアーニ

そうだ!私は死して名を残すことを選ぼう!

最期は自殺を遂げた孤高の画家。

悪くない。

まったく悪くないな……


そうして、
自宅で首を吊った私が死後の世界に辿り着くでもなく、
病院のベッドで目覚めてから、何日が経ったのだろうか。

意識ははっきりとしている。

ただ、

身体の自由がない……

視力も聴力も嗅覚もあるが、身動き一つとれない。

医者は私を「植物状態」だと言う。

だがそれは間違いだろう。
私の知っている植物状態とは違う。

植物は考えたり、苦痛を感じたりしているのだろうか?
私には感情があるのだから、「植物状態」でないことは明らかだ、

「このやぶ医者め」

そんな皮肉なセリフも言葉にはできず、嫌味な苦笑いすらできない。

結局、もうなにも生み出せないのだから、
私はあの新居のバスルームと同じだな……

「キュッ、カチャ…」

病室の扉が開いた音がして、誰かが入ってきた。

私の顔を覗き込んだのは北島で、

「先生!なんでですか?!……なんでなんですか!!」

「うわぁぁぁぁぁーーーーー!」

なんて号泣したもんだから、馬鹿面に毛が生えている。

「先生は天才じゃないですか!なんで……うっ……なんで自殺なんか…」

「こんなことなら、先生に頼まれたときにあの家を返せば良かった……」

「私があのとき先生の申し出をお断りしたのは、もちろん家族のこともありますが、先生が生まれ育った家に住めるという幸せを手放したくなかったんです!」

「それに……それに、先生あのとき言ってくれたじゃないですか?!」

「キミに頼んだよ、私が育った家を…って」

「あの言葉が嬉しくて、本当に嬉しくて……」

こいつ……本当に何も気づいていないのか……

バスルームの、あの素晴らしい世界が見えないと言うのか?!

まさか、あれが才能……

あの世界が見える私は天才だったとでもいうのか?!


しかし、後悔を感じ始めた私に、

「そんな馬鹿な話あるわけないだろう」

とでも言うかのように、
すぐに考えを改めさせるものが視界に入る。

涙を拭った北島は、

「馬鹿面」

をしていた……

それを見ても私の中に怒りなどはなく、
むしろ不思議と気持ちが落ち着いていくのがわかった。

ああ、私の絵は、

「バスルームの画家」は、

まだ受け継がれていくのだな……

ーーーー了ーーーー


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