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隔月記

『狐笛のかなた』を読んで

ふとしたきっかけで手にした『狐笛のかなた』
著者の作品は『鹿の王』しか読んだことがなかったのですが、読んでみると面白くて頁をめくる手が止まらなかったので、原風景に馳せる想いと滅びゆく種の精神性に関して呪いを込めて書き連ねていきます。

作品を通して垣間見える原風景

りょうりょうと風が吹き渡る夕暮れの野を、まるで火が走るように、赤い毛並みを光らせて、一匹の小狐が駆けていた。

狐笛のかなた 上橋菜穂子

本書はジュブナイル小説に該当する立ち位置だが、大人こそ読んで楽しめる文学作品と思う。
序章「出会い」から始まる、野を「野火」と呼ばれた小狐が駆ける描写は、幼き頃どこかで見たような「あったかもしれない」風景を心の奥底から呼びおこし、懐かしさを感じさせる。
実際はコンクリートで舗装された道路で通学し、いつも通りの捨て置かれたのかとも思う車が並ぶ寂れた駐車場を主な遊び場としていた僕は、そんな風景を見ながら育った記憶はないのだが。
そういった記憶にはない、ただどこか懐かしさを感じさせる郷愁に歓びを感じながら、物語を貪ることのできる作品だった。

恐らくこれは、作品を通して時代設定等(実際にされていたのかは定かではないが)あえて詳細には描写せず、それが教科書などで語られる歴史上の話だとしても現実世界を想起させすぎないように曖昧にしているのが1つの要因なのかと思う。
風景描写や登場人物の生活感、会話の節々に感じる言葉の選択は、教養として僕らが習ったであろう(リアリティを感じさせる)現実世界にありえた味気のないようなものである反面、ここから先はファンタジーと感じさせるような曖昧さがある。
それがどうにも「あったかもしれない」という懐かしさを想起させ、抗い辛い「もう一度あの頃に」という美化された過去への欲求を自覚させるのかもしれない。

人は元来、未来ではなく過去を追い求めるものだ。

滅びゆく種の精神性

僅かなことに喜びを感じながら、歩き始めた道を最後まで歩くしかない。

狐笛のかなた 上橋菜穂子

「久那」と呼ばれた、滅びゆく呪術を遣う一族の末裔。
彼の言い放ったこの一言に滅びゆく種族の精神性を感じ、特に記憶に残っている。
これはバブル崩壊から「失われた30年」と言われ、為す術もなく生を与えられた僕らの教義となり得る精神性と感じる。
決して諦念も自棄もなく、もしかしたらそこにはただ進化があるのみなのではないだろうか。

これは偶然なのか、生活していて元気なおじいちゃん、おばあちゃんと接する機会が多くある。健康、という意味ではなく活力に溢れた、まさに高度経済成長期においてこういう人が日本の成長を引っ張って行ったんだな、と感じさせるような。
対して、最近の若者は元気がなくて、だのギラギラしてない、だの言われるらしい。僕も何度か言われた記憶がある。この違いはなんなのだろう?

ここで行き着いた一つの考え(というより妄想)は、20世紀末、恋愛観の変化や経済的な不況により第三次ベビーブームが来なかっただの、浅学の身には洞察し得ない様々な要因に引き起こされる滅びへ向かって確実に人類(日本人という文脈)は進化しているのではないだろうかということ。

これは根拠も何もない、個人的な希望に満ちた空想なので真偽に興味はないが、そうであればこの精神性は滅びゆく種として獲得すべき崇高なものに感じた。

そんな奇しくも、始まりと終わりを感じさせるような喜ばしくも絶望に満ちた一冊でした。

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