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死にたくなったら電話して

『死にたくなったら電話して』 著:李龍徳

この小説を読み終わってから2週間が経ちました。

2週間を経て、未だ拭きれない圧倒的に異様な読後感に整理をつけたかったのか、それとも強く心の底にこびりついた負の感情と向き合いたかったのか分かりません。

更新したことのないnoteを書いてみようと、ふと思い立ちました。


ストーリーに関して細かくは触れません。基本的には何を感じたのか、つらつらと書き記していこうと思います。

「死にたくなったら電話して下さい。いつでも。」
空っぽな日々を送る浪人生・徳山は、ある日バイトの同僚に連れられて十三のキャバクラを訪れる。そこで出会ったナンバーワンキャバ嬢・初美から、携帯番号と謎のメッセージを渡され、猛烈なアプローチを怪しむも、気がつけば、他のことは何もかもどうでもいいほど彼女の虜に。殺人・残酷・猟奇・拷問・残虐……初美が膨大な知識量と記憶力で恍惚と語る「世界の残虐史」を聞きながらの異様なセックスに溺れた徳山は、やがて厭世的な彼女の思考に浸食され、次々と外部との関係を切断していき――。ひとりの男が、死神のような女から無意識に引き出される、破滅への欲望。

読了後にただ一つ、強く感じたことは「破滅への羨望」です。

主人公である大学生の徳山は、初美と生活を共にしていく中で「破滅への欲望」が徐々に湧き上がるようになります。端的に言うと、”心中”です。

徳山にとっては彼女がその発火剤となりましたが、僕にとってはこの小説がそれそのものでした。彼女の語る「世界の残虐史」はとても興味深く(もともと好きというのもありますが)、また、それらを語る彼女の背中や仕草(描写の生々しさ)に美しいという感情を覚え、「破滅は素晴らしいものである」と、そう感じざるを得なかったのです。

この物語には、破滅へと読者を誘う強い引力があります。

もっと多感な時期にこの物語を読んでいたら、もしくはその道を辿りたいと考えていたかもしれません。今でも全くそれがないという訳ではありません。心の底に強くこびりついた残滓のうち、一番色濃くあるものはまさにこれだと思っています。


また別の話ではありますが、北方謙三の『水滸伝』を読んでから、108星の生き様に触れ、「どう生きるか」よりも「どう死ぬか」が大切だと考えています。そういった側面があることも影響しているのかもしれません。

生きるか死ぬかの狭間で必死に生きたこともないくせに、死に場所を探しているんです。そうなってしまうくらいに「破滅」は魅力的なテーマであり、キラキラとしていて、他のものが見えなくなってしまう程の魔力を持っているんです。

その魔力の一端が、読み進めていくうちに感覚として現れる瞬間がありました。それは魔法にかかったような感覚で、その瞬間を認識するというよりも、気付いたらそうなっていた、というものです。

徳山の行動、感じたものや、特に彼女の言葉に触れているうちに、頭の中が徐々にぼーっとしていくのを感じました。(「感じました」というより読み終わってからそう感じていたと判ったのですが)

物語ではなく、破滅というテーマに対して夢中になり、それ以外のことに関しては靄のかかったように何も考えることができないというような感覚に陥ったのです。


伊藤計劃の『ハーモニー』というSF小説をご存知でしょうか。

ここに記されている「脳内の欲求の完璧な安定」が与えられた結果の副作用である「意識の消滅」が一番近い表現だと感じています。

「恍惚だった。」と彼女は言ってたよ。普通に食事をし、勉強をし、私たちと語らい、普段通りの生活を続けた。実験を終えて意識を戻した後、何も覚えてないと言った。ただ、ぼんやりとした幸福な世界に包まれて、恍惚だけを経験したと。

意識が消滅したかのような感覚に包まれ、それを自覚した結果、後に残ったものこそが「破滅への羨望」でした。まるでそれに至った先には「幸福な世界」があり、そこでは「恍惚」だけを喰らって在り続けることができると錯覚してしまったのです。


この小説は、化け物のような負への引力を内包しています。

その引力に抗うことができず、物語に身を投じた先にあったものは、地平線のみがどこまでも続く真っ白で突き抜けるような幸福感に包まれるような、それでいて空っぽな世界でした。

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