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バイバイ、モラトリアム


 あと数ヶ月、いや、二月もしないうちに、私は長く寄り添い合ったモラトリアムと別れを告げることになる。つまり、社会人として世に出るのだ。そこには達成感と同時に、一種の絶望感もある。

 10代前半の頃から、20ちょっとまでは、漠然とした努力が、実になってくれた。やるべきことが与えられていたから、将来何者になるか、何を職業とするのかについて、そんなこと考えずに努力をすることができた。高校まではただひたすら5教科の勉強をして、大学受験に向けての勉強。大学に入ってからは、曖昧な自分の将来に向けて、語学なり、資格なり、業外分析なりの、5教科の勉強の色をさらに薄くして、ぼんやりと広げたみたいなことを学んでた。
 
 何者かになりたい訳じゃなかったけど、何者かになる為の努力が、私に空っぽの希望をくれていたのだ。目先の空虚な安心感が、私の隣にいてくれた。だが、それももう終わる。モラトリアムを追放された私は、何者かになる。

 社会人になったからといって、特別な人になったりなんてしないと分かってるし、努力だって学生の頃よりもずっと必要だとも分かってる。夢だって学生だけのものじゃなくて、大人だってもちろん当たり前に持ってていい。

 節目を超えるだけ、立場が変わるだけで、その瞬間から私が大きく変わるわけじゃない。まだ私は未熟な若造だから、働くことにとてつもない嫌悪感を持っているわけでもない。

 それでもなんだろう、ずっと続くと思っていたものの終わりがもうそこまで来ている虚無感、挑戦権が一つ取り上げられたような悲しみ。もう戻ってくることのないこの瞬間への名残惜しさ。

 いつか来ると分かっていたそれが、いざ目の前で私に別れを告げようとすると、やはり何かやりきれなさというか、寂しさを感じてしまう。それが私にとっての絶望なのだ。

 だが、現在社会で生きている方々は、それらととっくに別れを告げ、今この瞬間も社会の中で息をしている。

 つまる所、結局まだ私が子どもなだけなのだ。だが、子どもであるが故、どうしようもない。そんなどうしようもなさは、お酒を飲んで流す。子どもであるから許してほしい。

 こんなにも未熟でみっともない私を、モラトリアムは置いていく。容赦なく、距離ができていく。

 バイバイ、モラトリアム。

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