鴨頭嘉人の半生 第5話 メンター藤本

 嘉人はついに店長からスーパーバイザーに昇進した。担当は東京にある1つのエリアだ。
 まずは問題が多い店を中心に回った。店長と少し話をして、後は鼻歌混じりでトイレ掃除をした。
 決まって同じ曜日に行き、同じ仕事を繰り返していると、掃除をする前に明らかにトイレが掃除されていた形跡があった。まだオープン前だったので、嘉人は大きな声で「誰だ! トイレ掃除をやったのは!」と怒鳴った。更に「黙ってたって分かっているんだからな」と言ってみた。
 すると「すみませんでした」と1人のアルバイトクルーの子が口を開いた。
「なんで謝るんだ。綺麗になってるじゃないか。ありがとう」
 嘉人は眩しい笑顔でそう伝えた。
「え……はい」
 この反応……もう何度目だろうか。その子は目を丸くしていた。嘉人はにやりとして、次の段階に進んだ。

 嘉人は担当エリアの問題店舗を改善していった。しかし、東京は問題が多くて本部は頭を抱えていたようだ。そこで、福岡で業績を上げた藤本孝博さんを東京に呼び寄せた。
 嘉人はスーパーバイザーなので、当然ながら挨拶の場に呼ばれた。どんな人なのだろう、とわくわくしながら待っていた。
 現れた人はスタジャンにTシャツで、ブラックデニムを履いて、銀髪だった。他の人は当然のようにスーツを着ているというのに、とんでもない人が来たんだなと思った。
「おう。集まっとんな。営業本部長の藤本孝博や。宜しく」
 藤本さんは関西弁で自己紹介をした。この見た目で関西弁を使うだなんて強烈だな、と思った。

 嘉人は本部長の挨拶があった数日後、新宿NSビルの店を訪れた。
 ここは昼のピークが強烈だ。同じビルには多くの企業が入っていて、昼時には30分で200人というペースでマクドナルドを利用しに来る。その時間帯はまるで戦場だ。
 この店のサービスタイムがなかなか短縮出来ないので、嘉人はどうすれば短縮出来るのか考え、とりあえず時間を計っていた。
「おい嘉人! 何しよんやお前」
 突然、藤本営業本部長が来た。
「ストップウオッチでサービスタイムを計ってます」
 嘉人はやっている事をそのまま答えた。
「分かっとるわ、んなもん……見たら分かるわ。舐めとんのかゴルァ……だから、何しとんねん? って訊いとんねん」
「いや、藤本さん。この新宿NSビル店は、お昼のピークが1日の売上の25%を占めているので、その時間帯のサービスタイムを短縮すれば、必ずお昼のシェアが上がり、1日の売上が上がり、月間のセールスが上がる事によって黒字化出来るんですよ」
 嘉人は具体的に説明した。
「舐めとんのかゴルァ! わしゃ営業本部長やぞ! お前にそないな能書き垂れられんでも分かっとるわ! わしが訊いてんのは、お前は何でそんな事をやっとるんやって訊いとるんや!」
 嘉人は激怒した本部長を見て、混乱した。今までの上司なら届いていた言葉が、全く通じなかった。何も反論出来ずに戸惑っていると、本部長は呆れた顔をして「もうええわ……ええから着いてこい」そう言って店から出て行った。
 嘉人は本部長に着いて行った。その先はNSビルの中にある中庭だった。そこにはビル内で働いていると思われるサラリーマン達が大勢居た。
 本部長は暫く無言で中庭の傍で立っていた。嘉人は何をしたらいいか分からないので、一緒に立っていた。
 サラリーマン達の様子をじっと見ながら、本部長の真意は何なのか考えていた。体感で10分程経った頃、本部長は口を開いた。
「嘉人……何感じる?」
 嘉人は目に映っていた光景を敏感に感じ取り、ありのまま答える事にした。
「辛そうです」
「せやろ。皆辛そうやろ……ほんなら分かるやろ。お前は何やったらええねん……」
 本部長は諭すような声で言った。
 本部長のこの言葉で、本当に気付かなければならない事にようやっと気が付いた。
「すみませんでした。今すぐ仕事をしてきます」
「行って来い……」
 嘉人はすぐ店に戻った。まだ忙しそうにしていたので、ピークが過ぎるまで手伝い、落ち着いてから店のスタッフを全員集めた。
「皆……申し訳なかった。今まで僕がしてきた事は、全部忘れて欲しい。間違ってた」
 嘉人は頭を下げた。
「このNSビルで店をオープンさせたのは、サービスタイムを短縮させる為じゃない。新宿NSビルに、毎日8000人の人が働きに来て、朝から晩まで忙しく働いている。そんな方達のお昼休みのたった60分だけ……少しでも、ほっこりと心が温かくなる時間を作る為に、うちの店はオープンしたんだと思う。僕はそんな事に気が付かないで、いつもサービスタイムを短くしろ。会社の成果を出せ。その事だけを皆に伝えてきた。全部忘れて欲しい……全て間違ってた。最初からやり直そう……そこでなんだけど、皆と話し合いたい。他の店からスタッフを借りてでもやろう」
「はい。分かりました」
 店長の一言で、皆がミーティングの準備に動き始めた。
 ミーティング名は「ビジョン・ミーティング」とした。他の店からスタッフを借り、全従業員を集めて半日かけてミーティングをする事になった。
 店長がまず最初に前に出た。
「今日は、皆でお店のビジョンを作ろうと思う。うちの店は何の為に存在しているのか……1人1人が何を出来るのかを、それを皆で話し合おう」
 そう言って大きな紙とペンを配り、ミーティングが始まった。
 始める前は、そんなに出てこないだろう――と思っていたが、意外にも沢山出てきた。
 ある程度出尽くした所で区切り、紙を出してもらい、前で発表してもらった。良いビジョンが沢山出てきて、嘉人も店長も感激した。
 そして最後に店長が再び前に立った。
「今、壁に皆が考えてくれた事を見て感動しています。こんなにもお店の事やお客様の事や仲間の事を考えてくれていた事を分かってませんでした。皆、本当にありがとう……この書いてくれたやつ、全部やろう。絶対出来る……」
 店長は声が震えていた。従業員たちは鼻水を啜っていた。それを見て、嘉人は横で目頭を押さえていた。
 しかし、全部やる――とは言ったものの、書いてくれた全ての文言を店のバックヤードに貼る事は出来ないので、ある1つのビジョンを掲げる事にした。
「新宿NSビルに愛される店」
 これを店のビジョンにして、再出発した。
 早速、スタッフから出る言葉の選択や、仕事に対する態度が変化していった。嘉人はそれを見て、何も指示する必要は無いと判断した。
 結果、サービスタイムを12秒短縮する事が出来た。勿論店の業績は上がった。更に、スタッフのモチベーションまで上がっていた。
 嘉人はこの時、自分のしていた事が改めて間違っていた事に気付いた。本部長は「もっと本質を見ろ」と教えてくれたのだと思った。
 それから嘉人は、なるべく本部長と一緒に行動をしようと決めた。本部長の全てを学ぶ事が出来れば、絶対に成長出来ると思ったからだ。嘉人は本部長をロックオンした。

 ある日、本部長と店の視察に行った。今から行く店は、担当の東京の中でも然程売上の高くない店だ。社員すら居ない。アルバイトマネージャーで回している店だ。
「え、ボス、こんな店行くんですか?」
 嘉人は本部長に着いて行くようになり、ボスと呼ぶようになった。
「こんな店って何やお前……謝らんかい! お前。毎日働いてる子がおるんやぞ、謝らんかい!」
「すみません!」
 その後、ボスは店の前でずっと店の中を見ていた。嘉人はその横で立っていた。
 店の中のスタッフ達は気付き始め、ちらちらとこちらを見ていた。
 暫く見た後、ボスは急にすっと店の中に入って、真っ直ぐアルバイトマネージャーの人に近付いて行った。
「何で入社したいのに、言わへんねん」
 彼女は声を掛けられ、びっくりしたように見えた。そして急に涙を流した。
「思ってる通りに生きたらええやないですか……」とボスは更に言い残し、店を出て行こうとした。
「次行くぞ!」と声を掛けられたので、ボスに着いて行った。
「ちょっとボス、待って下さい!」
「何や!?」
「いや、ボス……この店来た事あるんですか?」
「ある訳無いやろ」
「え、じゃぁ今のアルバイトマネージャーさんに会った事あるんですか?」
「ある訳無いやろ」
「じゃ、何であの人が本当に思っている事が分かったんですか? 会話もした事無いのに」
 ストレートに訊いてみた。
「ええか、嘉人……部下の声にならん声を聴けんようになったら上司はお払い箱や。部下の言ってる事だけを聴いてる奴は要らん。部下が言えない声を聴けるから、お前が必要なんやで……」
 嘉人は衝撃を受けた。これまでにそんな事を考えた事が無かったからだ。
 嘉人はコミュニケーションのスキルが高いと思われてスーパーバイザーになれた。だというのに、ボスに完全に打ち砕かれた。
 この日から部下の声にならない声を聴くトレーニングを始めた。どうすれば良いか考え、嘉人は漫画をイメージしてみた。ふきだしでも口から出る言葉と頭で考えている時は、ふきだしの描き方が違う。嘉人は頭で考えている“だろう”台詞を想像してみる事にした。これを繰り返し、表情を細かく見て、感じ取るトレーニングを重ねた。

 嘉人は本社の会議室で座っていた。ボスが東京に呼ばれた理由の1つである、東京の店舗を立て直す為のミーティングに参加していた。
「おい! 何かあるんやろ? 言うてみぃ」
「何を言えば良いんですか?」
 新入社員の女の子がボスに訊いた。
「何って、思ってる事を言えばええねん。大丈夫や」
「そうですね……マックの待遇がおかしいと思います。女の人は皆身体を壊しているのに、目を瞑っています。こんなのは会社じゃありません」
 新入社員だというのに、かなり厳しい事を言った。嘉人はボスが怒るんじゃないかと、そわそわした。
 しかしボスは「よう言うた。その通りや……すぐ改善する。それは俺の責任や」と本気で謝っていた。
 すると次は男の子が口を開いた。
「最近、店長があれこれ言うんです……パワハラだと思うんですよ」
「舐めんなゴルァ! 何言うとんじゃお前……舐めのもええ加減にせぇよ? 店長が言ってるのはな、とにかくアルバイトのクルーを大事にせぇ。お客様を大事にせぇ。マクドナルドをええ会社にするって事を言っとるんじゃ。お前がおかしいんやろがボケ!」
 嘉人はそれを横で見ていて、ボスの前では油断しないよう改めて気を付けようと思った。
 それ以降もしっかりした意見については、ボスがしっかり受け止め、実際に対応する事に決まった。
 また別の日は、東京の中でも次期スーパーバイザーになりそうな店長を集めて、マクドナルドの課題や問題を挙げ、どのように改善するのか、どのような実績が出たのか、発表しあう場に参加した。嘉人はそこにも参加した。
 嘉人はスカウトが得意なので、スカウトを主に担当する事になった。
「私の店舗ではサービスタイムの短縮の為に、30分のサービスタイムはデータで出ていますが、10分に1回サービスタイムを計る事にします」
「ふざけんなぁ!」
 ボスはいきなり靴を投げた。嘉人は声に出さなかったが、驚いた。
「舐めた事言うなオラァ! 30分間のデータが出てきたんが信用出来んからって、10分に1回計ったら何が起こんねん! 生産性が落ちるだけやろが。そんな暇があるんなら短こぅせぇや! 舐めんな! 机上の空論なんか要らんねん……だから江戸はあかんねん……お前の給料は誰が払っとんのじゃ! お前が運ばんかいハンバーガーは」
 江戸って……今時東京の事を江戸って言う人が居るのか。
 叱られた店長は黙っていた。ここで本当に「運びます」と言ったらどうなるだろうか、嘉人はふと想像した。「お前の給料はナンボやねん。アルバイト以下か!」と怒号が飛ぶと思った。
 ボスは反論が無いのを見て、「やり直せぇ」とだけ言って、この場はそれで終わった。
 次の発表会でサービスタイム短縮のプロジェクトから発表があった。
「1mくらいの細長い紙をキャップに貼る事にしました。そして、それが背中についたら負けというルールを設定しました。結果、18秒短縮出来ました」
「おぉ~」
 周りからは感嘆する声が挙がった。
「くくく……ははははっ! おもろいなぁー」
 ボスは爆笑していた。
「ちょーこれ1個だけ訊いてええか? お客様、どういう反応してた?」
 ボスは笑いながら訊いた。
「不思議そうな顔をしてました」
「せやろなー。お客様にばんばん訊かれぇ。何やっとんですか? って。そしたらな、胸張って答えるんや。1秒でも短くしたいんです、って胸張って答えるんやぞ。謝るなよ。絶対謝んな……アルバイトが一所懸命に走り回ってるのに、お前らが謝ったら終わりやぞ」
 ボスは泣きながらそう言っていた。

「おう。嘉人」
「あ、おはようございます」
「どや? 自分がやりたい事、見つかったか?」
 嘉人は以前からボスに1つ訊かれている事があった。それが今訊かれた事だ。嘉人はボスに会う度に訊かれ、それなりの答えを伝えているのだが……。
 今回も「ほーん……」と言われてしまった。いつもボスには響いていないように感じていた。
 もう1年以上同じ質問をされているが、ボスの反応は変わらなかった。何故響かないのか、嘉人にはまだ分からなかった。それなりに考えて思いを伝えているのに、ボスには全く響かなかった。ボスは本質を見抜く天才だ。ひょっとすると、本当に心の底から思っている事じゃないというのが、声のトーンなどから感じ取っているのでないかと思った。
「俺が本当に思っている事って何だ……」
 嘉人は悩んでいた。
 頭の片隅ではこの事で悩みつつも、仕事では成果をどんどん出していた。1年、また1年と実績を積み、本部の人事部に引き抜かれる事になった。
 本社務めになって初日、「おはようございまーす!」と大きな声で元気に挨拶すると「静かにして下さい。こっちは仕事をしているんですから」と、パソコンに向かって仕事をしている女性に言われた。
 その時嘉人は興奮した。会社は変化を求める為に自分を呼んだのだ、と確信したからだ。だから、周りが何と言おうと、やろうと思った事を行った。
 嘉人は日曜日の誰も居ない時、オフィスに入り込んだ。そして先日から用意していたアルバイトスタッフの笑顔の写真を、壁中に貼り付けた。
 翌日、出社すると「おい鴨頭! お前がやったんだろ、これ。何てことをしてくれたんだ。どうやって元に戻すんだ!」と言われた。
「何故元に戻すんですか? この笑顔の為に私達本社の人間が働いているんじゃないですか? マクドナルドってそういう会社じゃないんですか?」
 そう言うと反論されなかった。しかし、事故報告書を書く事になった。
 とある日の社内プレゼンテーションでも熱く語った。
 マクドナルドは日本だけでも14億回お客様が来店する。その1回1回、我々が心を込めて接客すれば、マクドナルドだけでなく、日本が変わるんだと伝えた。しかし、周りの反応は微妙だった。
 丁度そんな時、大嶋啓介という人の講演を聴きに行く機会があった。
 嘉人は一番前の席で話を聴いて、涙を流した。感動して泣いたのではない。悔しくて嘉人は泣いた。
 彼は自分より8歳も年下だ。それに店舗ビジネスという競争の世界で「一緒に成功しよう!」と言っている男だった。店舗ビジネスは競争の世界だ、と思っていた嘉人は衝撃を受けた。
 自分のちっぽけさと、自分もこうやって講演が出来るはずだ、と思い、涙を流した。
 悔しかった嘉人は、やる気が一気に爆発した。その時、丁度ボスと会った。
「おう、嘉人。どや? やりたい事、見つかったか?」
「はい! マクドナルドのようなサービス業で働いている人達が、自分の存在価値に気付いて貰えるような活動をしようと思います」
「そうか……なら、やったらええやん」
「はい!」
 初めてボスに言葉が響いた。
 そして嘉人はすぐに退職を決めた。しかし、人事に「辞める」と伝えてすぐに退職させてもらえる訳が無い。そこで嘉人は人事部長室に向かった。
「人事部長! 大変です。事件です!」
 普通、人事部長には簡単に会えない。だから、秘書をすっ飛ばして部屋に乗り込んだ。
「何だ? どうした?」
「大変です!」
「どうした? 鴨頭」
「私、会社を辞めます」
 そう言うと、人事部長が固まった。
「分かった。どうして辞めるんだ?」
「やりたい事が見つかったんです。マクドナルドでは出来ない事なんです。だから、今すぐに辞めさせて下さい」
「……そのやりたい事というのは何だ?」
「日本中のサービスパーソンに、自分の価値を分かってもらう活動です」
「それでどうやって飯を食うんだ?」
「講演業です」
「成程……だけどな、鴨頭。お客様が聴きに来ないと金にならないだろ。無名のお前がどうやって稼ぐんだ? 猿だって次の枝に手を掛けてから次に移動するんだぞ」
「分かってます。ですが、今この時でないと進めない気がするんです。いやらしい話、退職金も出ますし、多少貯蓄もあります。だから、資金はあります」
「そうか……分かった。鴨頭がそう言うなら大丈夫だろう。私が何とかするから、すぐに退職の準備をしろ」
「ありがとうございます」
 嘉人は人事部長に感謝し、すぐに退職の準備に入った。
 翌日には完全に終わり、その日のうちに退職の手続きが完了した。
 この先、収入源は無い。しかし、全て整ってから動くなんて事は不可能に近い。だから思い切って一歩進んだ。
 この時、嘉人には妻と2人の子供が居た。妻の性格上、否定はされないだろうと思ったが、会社を辞めた事は家族には一応内緒にした。そして「ハッピーマイレージカンパニー」を設立した。

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