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アントニオ一家の元和大殉教

「Laudate Dominum omnes gentes 神をほめたたえよ」
 
スピノラ神父が歌い始めると次々と柱に縛られた殉教者が声を合わせて歌った。スピノラ神父は柱に縛られてもなお、役人や立ち会った周囲の人々に熱心に訴えかけた。
 
「我々は国を奪う為に来たのではない。救いの道を教える為に来た。我々を殺してもキリシタンは決して滅びない。一粒の麦が地に落ち、死ぬことで多くの豊かな実を結ぶ。キリシタンが火に打ち勝つ時を楽しみに、よく見るように。」
 
1622年元和8年9月10日、長崎、西坂。
罪人の処刑場として長年使われていたこの地は1597年慶長元年の26人のキリシタン殉教からキリシタンの処刑場となった。長年多くのキリシタンの処刑が行われ、キリシタンからは聖地、他の人達からは長崎の名物化されていた。元和の時代となってからはキリシタン弾圧が厳しくなり各地でキリシタンの処刑が行われていた。徳川幕府が秀忠の代となり、江戸、京都、長崎で大規模な殉教が行われた。元和の大殉教と呼ばれる。今までは多くても10人程度の処刑であったが、この大殉教は50人規模である。長崎の大殉教ではイエズス会のカルロ・スピノラ神父ら25名が火刑、女子供を含む一般信徒30名が斬首刑に処された。アントニオ一家はこの55名の中に含まれる。
 
アントニオ一家の元和大殉教
 
 
長崎市内にある西山ダムの下流に掛かる高麗橋。ひんやりとした橋を渡ると足音から石の重厚感を感じる。決して長くはない橋のつなぎ目を踏みながら中間まで歩き長崎港の方向に目を向けると当時の景色が広がる。
1634年寛永11年に日本で最初の石造アーチ橋が架けられた。中島川に掛かる最古の石橋は眼鏡橋と呼ばれる。最初に橋が掛けられ50年余りで20もの石橋が架けられた。当時は上流から第1橋、第2橋、第3橋・・・と呼ばれていた。
キリシタンの町として発展していった長崎であったが1612年慶長17年に発布された禁教令によって一変した。宣教師らは国外追放され、密告した宣教師や神父、修道士、それを支える長崎の信徒らは迫害され多くの血が流れた。1637年寛永14年に起こった島原の乱の後、日本からキリシタンは消えた。日本は神国思想である。それ故にキリスト教は邪宗であるとされた。キリシタンの町で発展した長崎であった為、信徒数もそれなりに多数であった。キリシタン抑制と考え多くの寺院が作られた。全盛期には日本に存在するすべての寺院が長崎に存在したほどの力の入れようであった。特に寺院が集中して作られた地域を俗に「寺町」と現在は呼ばれている。話は戻り、2年のペースで中島川に橋が架けられた理由はどの位置からも一直線に寺院に向かわせる為であった。
1652年承応元年に伊勢町と八幡町の間に架橋されたのが第2橋。長崎在住の中国人によって架けられた。明治時代に入り漢学者らによって改名され高麗橋と呼ばれるようになった。この命名は建設者ではなく地名に関係がある。
伊勢町と呼ばれる以前、この地に伊勢内宮天照皇太神宮を奉納した社があった。しかしキリスト教全盛期にここに移り住んだキリシタンより破壊され、教会が建てられた。禁教令と共に教会は取り壊され伊勢宮神社が再建された。再建後に伊勢町という町名に改名された。それ以前は新高麗町と呼ばれていた。朝鮮人が多く住んでいた地区であったからである。日本天下統一を果たした豊臣秀吉は中国まで征服を目指して1592年文禄元年に文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮征伐を行われた。この争いの間、多くの朝鮮人が奴隷として日本に連れて来られた。連れて来られた目的は様々だったが技術者を捕縛して朝鮮の進んだ文化技術を取り入れる目的もあった。特に陶工は日本のやきものを画期的な飛躍をみせ、現在の長崎の伝統工芸や波佐見焼や三河内焼に発展した。奴隷として連れて来られた長崎の朝鮮人はイエズス会の計らいで人々は解放され濱ノ町に高麗町を作り暮らしていた。長崎の中心部の発展により、鍛冶屋町に移され、次に伊勢町にと、追いやられるように川上の方に高麗町は移されていった。キリシタン朝鮮人は解放してもらった恩もあり7千の人々が入信し、最後に移された伊勢町に朝鮮人の教会であるサン・ロレンソ教会を建立された。しかし1614年慶長19年の禁教令によってサン・ロレンソ教会は破壊され、キリシタンであった朝鮮人たちは処刑され町名も伊勢町と改名された。1652年承応元年に中国人が何を思い高麗橋と名付けたかは不明だが、歴史を風化させない、日本と移住者、など様々な架け橋を願っていたのかと想像する。
 
・高麗人と呼ばれたアントニオ
 
アントニオ「高麗人」は朝鮮出身の人物である。1582年頃生れである。古い資料に「アントニオ浜ノ町」と記載があり同一人物である。おそらく捕虜として長崎に連れて来られ最初の居住先である濱ノ町に住んでいた為このような記載がされていると考える。
いつどこで洗礼を受けたか不明だが、セバスチャン木村の宿主として働いていた。アントニオには妻ドミンガ、長男ジョアン12歳、ペトロ3歳の家族があった。妻ドミンガは日本人女性であり、洗礼名以外の名前、年齢や出身などはわからない。
 セバスチャン木村とは、イエズス会の司祭である。レオナルド木村らの親類にあたる。彼は有馬セミナリオの最初の生徒の一人であり中浦ジュリアンらと同期となる。そして岬の教会で最初の叙階が行われた最初の日本人司祭の一人である。叙階後は天草や豊後を布教した。1614年の禁教令下は50歳であり、長崎に潜伏しアントニオら宿主に支えられ布教活動を続けた。バスチャン神父と皆から呼ばれ穏やかで親しみを持って熱心に仕事をしていた。
アントニオは、他の宿主17人と協力して宣教師、司祭、修道士を支えていた。彼らの情報が役人に流出し激しいキリシタン探索の要因となった。アントニオ一家はアントニオの自宅で開かれたセバスチャン木村神父のミサの最中に同胞の女中の密告により1621年元和7年に捕縛された。セバスチャン木村神父は鈴田牢、アントニオ一家はクルスの牢に収容された。
 
・元和の大殉教
 
台湾近くで平山常陳が船長とする朱印船がイギリスとオランダ艦船に捕らわれた。平戸に入港し密航の疑いで長崎奉行の取り調べが行われた。二人のスペイン人は商人であると言って疑いを逃れようとして2年間もの取り調べや拷問の末、宣教師であることを告白した。スペイン人の宣教師、アウグスチノ会士ペドロ・デ・ズニガとドミニコ会士ルイス・フローレスは平山常陳とその船員全員と共に1622年元和8年に処刑された。平山常陳事件と呼ばれるものだ。この事件により幕府はキリスト教への不信感を決定づけるものとなった。長崎奉行長谷川権六は流血を避けていたことにより、キリシタンの疑いがかけられ、弾圧側の執行人として身の潔白を証明することを強いられることとなった。京都の一斉の大殉教を目のあたりにした権六は大村の鈴田牢に収容している宣教師や修道士を長崎へ移送する事を命じた。クルスの牢屋はその後に多数捕縛され、キリシタン達で飽和状態となっていた。1622年元和8年8月4日、クルスの牢から30名の処刑者が選ばれた。
 
 長崎湾に突き出た半島はキリシタンの間から「聖なる丘」と呼ばれた。ここは大黒町から麦の段々畑の坂の長崎街道を上った西坂の高台である。かつて26人の聖なる殉教者が処刑された場所であり、これまで多くのキリシタンが処刑された。殉教者の骨や衣服、さらに血が染みついた土でさえも信仰の対象である聖遺物となった。この聖遺物を求めてここを訪れる者がいた為、警備は厳しいものであった。特にこの日は新しい竹矢来がめぐらされ、陸からも臨海からも警備兵が設置されていた。駕籠が到着した。多くの役人に囲まれて西坂の半島の海岸側の上部の段に設置された番小屋に向かった。
長崎奉行長谷川権六は処刑当日欠席し「助太夫」という役人に指揮を命じた。助太夫は番小屋の中国風の赤い絨毯に腰を下ろした。大村や平戸など数人の重臣も同席していた。
朝9時ごろ大村からスピノラ神父ら25名が大村から西坂に到着した。竹矢来の中には25本の柱と周りには囲うように薪が詰まれていた。彼らは並べられた25本の柱の前に立たされた。海岸側には1本空席の柱が残った。柱についていた長い紐で両手を緩く縛られた。死を避けようと逃げる者をわざと出し、信徒たちへ軽蔑を煽るためにしっかりと磔にすることをしなかった。柱の向かい側には斬首の為の長い首さらし台が置かれていた。
 
「Laudate Dominum omnes gentes 神をほめたたえよ」
 
スピノラ神父が歌い始めると次々と声を合わせて歌った。あまりにも聖なる風景に立ち会った人々の中に涙を流す人もいた。スピノラ神父は役人や立ち会った周囲の人々に熱心に訴えかけた。
 
「我々は国を奪う為に来たのではない。キリシタンの教えにだけにある救いの道を教える為に来た。また、我々を殺してもキリシタンは滅びない。一人を殺せば神は百人をこの地に送るであろう。キリシタンが火に打ち勝つ時の楽しみをよく見るように。」
 
ドミニコ会のフランシスコ・モラレスが語った。
「キリシタン達よ、この最後の模範をよく御覧なさい。我々が日本滞在中に、あなた方の師として言葉で教えてきた信仰の真理を神のご加護によって確認させるのです。しかし万一、苦痛の最中に苦痛を避ける我らの弱き肉体が悲しみを現わし、何かの変化を見せても驚かないようにしてください。この命を神に捧げる決意の精神ではなく、本能的に示す弱い身体の反応です。我らは皆、マルチルの決意、この模範を心に留めよ。」
 
 しばらく経ってから、クルスの牢から移送された30名のキリシタン一行が西坂に到着した。宣教師・司祭・修道士と宿主と再会に喜び合い、そしてまた天国で再会することを話した。再会した一同は竹矢来の中に入れられた。クルスの牢からの宿主であったパブロ田中、アントニオ、ルシア・デ・フレイタスは火刑の宣告を受けていた為、呼び出された。空席の柱の隣の柱に磔にされていた修道士トマス・デル・ロザリオとドミンゴ永田は柱から引き出され急遽斬首刑に変更された。
 助太夫の指示で斬首刑が執り行われた。無表情の首切り役人は一振りで、次々に差し伸べる首を落としていった。精神的苦痛を与える為に柱に縛られた人々の目の前で斬首刑は行われた。最初に斬首されたのはマリア村山である。彼女は村山等安の長男徳安の妻であり、セバスチャン木村やレオナルド木村の親類にあたる。加えて末次平蔵の姪になる。次に修道士トマス・デル・ロザリオとドミンゴ永田と順番に斬首刑された。処刑された順ではなく、首を回収する係の役人の順番で首さらし台に首が並べられた。海岸側から、トマス・デル・ロザリオ、マリア村山、アントニオの妻ドミンガの首が並べられた。偶然にもアントニオの目の前に妻の首が置かれた。母の頭部を持っていかれた役人の後をその子供ジョアンとペトロがついていった。
「アッパ、父上様。母上様は先にパライソに行かれました。これから我らもパライソに向かいます。母上とペトロと待っております。」
ペドロは兄ジョアンに手を取られ主に向かって咲く日輪草のような笑顔であった。2人は首切り役人の前に跪き、手を合わせ
「ゼズス様、あなたの御手に委ねます。」
「みてに、ゆだねます。」
刃が天から地に向かって振り落とされ、ジョアン、ペドロと順に首を落とされた。
計30名の斬首刑は終了し、火刑される者の前に並べられた。母と子供たちは離れて並べられたが兄弟2人並んでいた。精神的落胆を期待して火刑者の前に並べられたであろうが、逆に彼らにとって励ましになるものとなった。並べられた殉教者の首には恐怖に満ちた表情はなく、希望に満ちた顔がそこには並んでいたからである。
 
・家族 가족
 
スピノラ神父は勇士を見届け、火刑の合図を待っていた。彼は助太夫に向かって忠告をした。
「汝の魂とこの国すべての魂を探し救わんとして、私たちは海の向こうからやってきました。その保証としてこの命を捧げます。私たちが捧げた貴重な賜物を受けてくださらなかった貴方達は、最後の審判を得られます。だが安心されてくださいませ。我々がパライソで貴方達の弁護人となろう。」
「我々の中で苦痛を訴える者がいるかもしれない。一寸の苦痛でも堪えられないような弱い肉体しか持っていないのに、今、この酷く恐ろしい試練にあって、余計に苦痛を感じるのは当然のこと。人間は弱い。だからこそ神を求める。我が天地の創造主の全能の信頼が必要なのである。」 
数か所から一斉に火がつけられた。観衆は叫び声をあげる者、悲鳴をあげる者、騒然した光景が広がった。しかし磔にされているスピノラ神父らには祈り以外の声は聞こえなかった。その為彼らには我らの為に祈ってもらう喜びで満たされていた。前日は雨だった。湿潤した薪には十分に燃え広がらず、その上薪が想定以上に足りず非常に弱い火で長い時間彼らの身を焦がしていった。中には苦しみに耐えきれない者もいたが互いに励まし合った。
アントニオは涙が止まらなかった。
「ドミンガ、私は日本に連れて来られたおかげであなたに出会えた。素晴らしい子供たちにも恵まれた。家族になれて本当によかった。パライソでいつまでも家族一緒に暮らそう。サランヘヨ、ドミンガ。」
さらし首台に並べられたドミンガの目から涙が流れた。微笑んだ表情から、さらに喜びの表情に変わった。
「サランヘヨ、アントニオ。」
燃え盛る音に乗ってドミンガの声が聞こえた。空を見上げると澄んだ青空であった。青空に向かって白煙が昇っていく。
「アッパ、主よ、家族にしていただきありがとうございます。」
アントニオは目を閉じ、白煙共に澄んだ空へ登っていった。
火刑を受けた彼らは熱さを感じていない表情で天国の方向を向いて栄光に満ちていた。1時間半にも長く続いた火刑はスピノラ神父が先頭に立ち、天国に向かって列をなして帰っていった。セバスチャン木村は皆の旅立ちを見届け、列の最後尾に立って帰天した。1622年元和8年9月10日であった。
 

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