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Facebookのない静かな毎日。

父が亡くなって青山の実家に戻ってから、今まで多用していたFacebookをほとんど見なくなった代わりに、TwitterやInstagramをよく触ってます。

特に何か考えたり決めたりしてそうしたわけじゃないんだけど、まだ僕は誰かと積極的にコミュニケーションを取りたくないってことなんでしょうね。他人に見せる「分人」を用意する余裕が、まだない。

Facebookというのは、言葉なり写真なりを投稿すると友人たちが「いいね!」をつけたりコメントをくれて、そこにまた返信コメントを書くという相互コミュニケーションの場なので、それが面倒というか億劫なんですね。「いいね!」はまあ嬉しいけど、コメントから始まるコミュニケーションは拒否したいという、ひどくワガママに社交性が偏った状態です。

けれどちょっと考えてみると、この「他人と関わるのは鬱陶しいけど、独りでいるのは寂しい」という今の僕の矛盾した状態は、けっこう人間の本質的な欲求を表しているんじゃないでしょうか。

独りで暮らすのは寂しいから、友だちを呼んで遊ぶんだけど、そればかりだと疲れるから、やっぱり独りがいいんだけど、それでも寂しいから、恋人と暮らしたり結婚したりするんだけど、自分以外の人間がいつも家にいるというのはやはりどこかで鬱陶しいから外に出る、という延々と続く心の距離感の伸び縮みが、僕らの人間関係の充実度を決めるのかもしれません。

僕がよく一人旅に出るのは、日常生活において他人との距離感を掴むのが下手なせいで疲れてしまい、たまに自ら孤独になってそこらへんの心のバランスを取っているんだと思います。

そして今は、Twitterやブログで言いたいことは言いたいし、それを他人に読んでほしいし、それなりのレスポンスもほしいんだけど、そこから始まるコミュニケーションはまだ遠慮させてほしい、という利己的な意味で、Facebookを避けているみたいです。Instagramの写真やブログの更新は転載しているけれど。

と同時に、あらためてFacebookから離れてみると、僕は今までどうして毎日あんなにたくさんの投稿をしていたのだろう、と首をかしげてしまいます。仲のよい友だちとオンラインでただやり取りをするという楽しみ以上に、インスタントに承認欲求を満たそうと慌てふためいていた自分の姿が思い出されます。

日常のあれこれがもっと落ちついたら、またFacebookに帰っていくかもしれないけれど、今は毎日が静かで、これはこれで心地よいものだったりします。

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