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しあわせになろうよ──猟奇的でビョーキ的な〈憑き物〉にサヨナラ。

──過日のこと。何年か前に買って読んでいなかった小説をなんとなく手に取ってみると、なかなか面白くて、思わず時間を忘れて夢中になっていた。

ところが、読みすすめていくと、いたるところに傍点や傍線が引いてあるので、驚いてしまった。

あらためて確認したが、古本屋で買ったのでもなければ、死んだ親父の書棚からもらってきたものでもない。私が藤沢のジュンク堂で自ら買い求めた記憶があるし、本自体の佇まいも真新しくシャキッとしている。

私は一瞬ぞっとして、今テレビで観ている〈初恋の悪魔〉というドラマで、松岡茉優ちゃんが演じている彼女のように、私の中に私の知らないもう一人の私がいて、そいつがすでに読んでいて傍線を引いたのではないか、などと馬鹿げたことを思ったりもしたが、そんなことがあるはずもなく、どうやら私は忘れているだけで、すでにこの小説を読んでいるらしい。

それにしても、わずかな記憶の断片すらなく、まったく初めて読むかのような感覚でいる自分が不思議でならなかったが、何も知らないゼロからの頭でもう一度楽しめるのだから、これは二倍得をしているのかもしれない、などと考えて、自分を納得させることにした。

──それからまた別の日のこと。久しぶりに〈迷走王 ボーダー〉という漫画を読んでいた。これは、高校生の頃にハマって、今まで何度も読み返している漫画なので、さすがに忘れてはいない。

……と、言いたいところだが、場面やセリフやエピソードなんかには意外と忘れているところが多く、自分が歳を重ねているので、同じシーンでも感じることがずいぶん違ったりする。

主人公は、世界放浪の旅を終え、オンボロアパートの家賃三千円の便所部屋に住む、蜂須賀という無職のぶっ飛んだ中年男だ。

蜂須賀は、コマーシャルやマーケティング──つまり、企業や広告代理店が自分たちの〈商品〉を売るために、テレビやメディアを通じて広めた〈イメージ〉──を盲信して踊らされる大衆を〈あちら側〉の人間と呼び、それらコマーシャリズムや経済や常識に惑わされずに、浮浪者同然の暮らしをしながら、この世界の真実を見抜こうとする自分たちを〈こちら側〉──その境界線を生きる者〈ボーダー〉と呼んだ。

この漫画の連載開始は1986年、まさにバブル絶頂期で、そこらじゅうに金が溢れていた時代なので、そりゃ、みんな金があって幸せで将来の不安もなく浮かれてるんだから、いちいちイメージだとか常識だとか疑ったりはしないよな。まさかそんなイメージや金が泡みたいなものだったなんて、まだ誰も知らないんだから。

けれど、何者でもないが、特別でありたくて、対象はわからないが、なんだか生きるのが息苦しくて、よくわかんないけど爆発したい、というマグマを腹に抱えた、どこにでもいるスネた高校生だった私は、──この息苦しい世界、現代社会そのものを否定して、真実はもっと違うところにあるんだぜ!──と喝破するかのような蜂須賀の生き方に、強烈に衝撃を受け、思いっきり惹かれ、影響されたのだった。

さらに、当時の私のスーパースターだったブルーハーツが、イメージ社会の飽和を告げる〈こちら側〉の象徴として、そのまま漫画に登場してからは、──世界を否定して自分を肯定したい青臭い時期の私にとって、バイブルのようにすら感じられたものだ。

当時は自覚していなかったが、私は、この漫画に限らず、パンクロックを聴いてスリーコードをかき鳴らしデストローイ!と叫びながら、海外の連続殺人鬼の本を読んだり、異常犯罪の映画を観たり、心理学を囓ってみたり、陰惨でじめじめした小説を読んだり、明るく元気な高校生をやりながら、一方では、無自覚にも、猟奇的ならぬ、ビョーキ的なものばかりを求めていたところがあった。

エヴァとか、まさにハマったもんね。──アダルト・チルドレンかあ、そういうことかあ、わかるぞシンジ、逃げちゃダメだよな、てことは逃げたいよな、逃げちゃおっかな、そうだよなアスカ、必要とされてたんだよな、オレも覚醒するよ──なんて自分を彼らと同一化していた頃は、今思えばもう二十歳を過ぎていたのか、……トホホ。

ちなみに、そういう意味で、大学生の頃、ボーダーを超える衝撃を与えてくれたのは、花村萬月さんの小説だった。


自ら〈小説の中で新しい倫理をつくる〉と語る花村萬月の小説は、まさにそれまで私が信じていた常識や倫理を見事にぶっ飛ばしてくれた。

登場人物は皆アウトローで、ヤクザかヤクザにもなれない半端者か、暴走する若者、ヤク中、暴力衝動を抑えられない者など、セックスやアルコールや薬物や暴力──歪んだ自尊心──、に塗れた社会不適合者たちばかりだったが、そんな彼らこそが、私に大切なことを教えてくれ、それまで私を縛っていた心の鎖のようなものからも解き放ってくれた。

今でも、初めて花村作品を読んだときの、得も言われぬ爽快感を覚えている。──そう、私は、じつに爽やかで、解放された気分だったのだ!

それから月日が経ち、若者特有のそのような自意識を持てあますことも減って、小説を読んだこと自体を忘れてしまうくらいにすっとぼけたおっさんになって、私もそれなりに大人のフリをして健全に生きているつもりだったのだけれど、数年前にちょっといろいろあって、また再び、思春期の頃のように、無自覚にビョーキ的なものを追い求めるようになっていたらしい。

あんまり憶えていないんだけど、中村文則が描く悪や、その根っこにある傷や罪、中上健次の怒りや呪いに触れると、そこに共鳴する自分の傷が癒やされるような気がした。実際は傷が疼いていただけかもしれないが。

──そして最近のこと。ボーダーの原作者である狩撫麻礼の別の作品〈天使派リョウ〉という漫画を読み返していたら、あっとまた驚いたのである。

〈天使派リョウ〉では、カヨさんというユーミンに似たアクの強いキャラが、蜂須賀のポジションで、いわゆるクリーンで常識的な現代社会(と言っても90年代)を斜めに見て、その裏を解き明かしたり揶揄したりちげーだろ、と切り捨てる展開が進むのだけれど、主人公は、あくまでタイトルにあるリョウちゃんなんだよね。

で、物語の後半で、カヨさんが、かつての舞踏家仲間の影のある男がテキ屋をやってる姿を見て「まったく成長してない」と呆れ、こう呟く。

「好きで〈ビョーキ〉やってるやつにかかわっても無意味じゃん」

その場面を読んで、私はしばし呆然としてしまった。

──あ、私も、好きで〈ビョーキ〉をやってたのかもしれない。

もちろんここで言うビョーキとは、いわゆる精神疾患を差しているわけではない。私だって、精神を病んだときは、専門の医療機関に世話になり、適切な投薬治療と何度かの入院を経て、自分で立ち上がれるまで回復することができたのだ。

ここで言うビョーキとは、──自らが選ぶ生き方のことだ。

私はそれを自覚した途端、──そういうのはもういいや、と苦笑していた。そんなつもりはなかったけど、私は自らビョーキを選択していたんだなと。

いつまでも、過去の罪、心の闇、傷や痛みに向きあっているのではなく、自ら、眩しい希望を抱いて、明るいほうへ、ポジティブに生きていく、という、当たり前すぎる選択。

そこに辿り着くまでに、ずいぶん遠回りをしたし、大切な人たちに迷惑もかけてきたな、と俯き、ちょっと逃げだしたくなった。

私にとって、ボーダーも、パンクロックも、シリアルキラーも、花村萬月も、エヴァも、中村文則も、中上健次も、あるいは西川美和の映画、その他、数え上げればキリがないが、様々な表現や作品たちが、私を闇から救いだしてくれる、掬いあげてくれる大切な存在だった。──でも、もう、いいや。そう思えたのだ。

今まで、ありがとう。あなたたちは、私の大切な友だった。あなたたちのおかげで、今日まで生きて来られたのかもしれない。でも、もう、私は一人で歩いていけるんだって。

〈天使派リョウ〉は、時代的にも世を呪い、世に復讐をしてしまう過激に走ってしまうカヨさんや、自意識や自尊心、平たく言えばコンプレックスに縛られた様々な人物たちが〈憑き物〉を落としていく物語だ。

主人公のくせに、カヨさんの存在感に押され、あまり物語の展開の核心に関わらなくなっていくリョウだが、彼は、はじめから、その天使性──罪も闇もないイノセント(でアホ)な存在──として、〈憑き物〉を背負った者たちの光としてそこにいたことに、カヨさんも気がついていく。

「勝手にシリアスやってなよ。あたしも、あたしのまわりも、あんたより真剣に生きてるわ」

というのも、世を呪いビョーキをやってる男に放ったカヨさんの言葉である。

あれだけボーダーで〈あちら側〉を叩き、大衆を嘲笑っていたかのような狩撫麻礼が、

──過去とか復讐とかのネジくれた暗い情熱、ビョーキはもういいから、シンプルにしあわせになろうよ。

って言っていたんだなあ、と気づいて、また別の衝撃を受けたのだった。

と同時に、忌野清志郎の「愛しあってるかーい?」という叫びが耳の奥に響いて、オザケンの〈愛し愛されて生きるのさ〉の詩が妙に心に沁み、私の中の〈憑き物〉も浄化されていくように感じられた。

シン・エヴァンゲリオン劇場版の、あのラストシーンを観たとき、──庵野さんも〈憑き物〉が落ちたのかな、なんて勝手なことを思ったけど、そう思わない?

とはいえ私はまだ、完全に〈憑き物〉が落ちたとは言えないかもしれない。

毎日のように、哀しみや寂しさ、陰の時間は回ってくるし、やんちゃで手のかかる仔犬のアンとの暮らしのリズムによって、どうにか生きのびているように感じられることもある。

けれど、それでも、──ビョーキはもうじゅうぶんだ。私のことはもういい。愛を差し出しあって、しあわせになろうぜ、と思える時間が増えてきている。

そして、そうやって自分の傷を癒やすために、ビョーキ的に触れていたそれらの作品を、今あらためて観たり読んだりしてみると、余計な夾雑物が消えうせ、文芸、芸術、表現として、純粋に楽しめるようになったような気がする。ときには、まるで別の作品かのように感じるほどに。

中村文則の描く悪や闇は、もう私には必要ないが、それにしても彼の描くそれらの巧みさ、文の芸の凄まじさに圧倒され、また違う喜びを味わっている。

そう考えてみると、冒頭で語った、──まだ読んでいないはずなのに傍点や傍線が引かれていた小説は、やっぱりドラマの松岡茉優ちゃんみたいに、私の中のもう一人の私、ビョーキをやっていた私が読んでいたのかもしれない、なんてことを思ったりする。

というのも、その小説だけでなく、他にもエッセイ集や登山の本、雑誌、映画にいたるまで、同じように、記憶にはないがどうやらすでに観たり読んだりしているらしい作品が、いくつかあって、それらの作品たちはどれも、私がこの数年間、闇夜を彷徨うように混乱していた時期に触れていたものだったのだ。

たしかに、あの頃のビョーキ的な私と、今の私は、まるで別の人間で、記憶がなくなっているのも不思議ではないのかもしれないな、などとリアルに思えてしまうから不思議だ。

──世界は、明るい。

暗く見えるときもあるが、いつだって明るいのだ。でも、その明るさに気づくためには、シリアスでビョーキ的な夜も必要だったのかもしれない。

それはずいぶん長くて、ちょっと疲れちゃったけど。もう、いいや。こりごりだ。

──世界は、明るい。そっちを選びさえすれば。

そして、最後に、蜂須賀の言葉を置いておく。

「一番美しい日本語を知ってるか…………? サヨナラ」


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