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普段からメイクしない君が薄化粧した朝。

世の中のあれこれが運命のように見えるのは、カラーバス効果みたいに、けっきょく自分が意識的にそうとらえているんだってことはわかってる。

でも数ヶ月前のあの日、高畑充希ちゃんていう天才女優をきっかけに、ふだんは観ないNHKの連続テレビ小説を録画予約して、宇多田ヒカルの主題歌を聴いたとき、冒頭の歌詞に違和感を感じたのは、今思えば運命としか思えない。

普段からメイクしない君が薄化粧した朝
始まりと終わりの狭間で
忘れぬ約束をした

『花束を君に』が収録されたアルバムをiTunesで買って、「薄化粧した朝」というのが宇多田ヒカルの母が亡くなって「死に化粧をした朝」だと知ったとき、その違和感が霧散した。すでに定められた量を出しつくして枯れたと思っていた涙が、またふつふつと湧き出して、またあのときと同じように犬のように泣いているぼくがいた。

大切な人が亡くなったとき、近しい者は誰もが後悔の念に包まれる。もっと会いにいけばよかった、もっと話をすればよかった、もっと抱きしめればよかった。後ろ向きな気持ちばかりに包まれて、「ごめんね」という言葉だけが宙を舞う。

けれど宇多田は、そんな贖罪の日々を乗り越えて、亡き母に「ごめんね」ではなく「ありがとう」という言葉をかけた。「世界中が雨の日も、君の笑顔が僕の太陽だったよ」と、涙色の花束を贈った。

ぼくがこの曲との出会いを運命づけたのは、父が亡くなった直後、始まりと終わりの狭間で、ぼくも父に忘れぬ約束をしていたからだ。

ぼくはその日、大きな覚悟を持った。もうこれからどうなってもいいから、家族を道づれに路頭に迷うことになっても、自分が信じた道を歩こう、それが間違っていようとも、ぼくの人生を歩もう、と決めた。

父があの日亡くなったのは、ぼくが手遅れになる前に、それに気づかせてくれるためだった。他人の価値観や生活のためでなく、自分自身が進みたい道をまっとうするためにぼくらは生まれたのだ、ということを、自らの人生で示してくれた父が、最期にそれを伝えてくれたのだと、ぼくは心の底から確信している。

自分の道をまっとうした父のもとで、ぼくも少なからず傷を負ったかもしれない。けれど今その傷があるおかげで、ぼくだけが語れる言葉を手にすることができた。他の誰にも伝えられない物語をぼくは持っている。

だから今ぼくも、ごめんねではなく、ありがとうを言いたい。まだ明るくあたたかい色の花は用意できないけれど、涙色の花束ならば贈りたい。終わりだけどこれは始まりだから。

両手でも抱えきれない
眩い風景の数々をありがとう。




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