「肯定」と「否定」を捉え直す

「肯定」「否定」という言葉が持つイメージ

肯定と否定、よく使われる言葉ですね。
「肯定的な/否定的な態度」「自己肯定感/自己否定」等々…
この「肯定」と「否定」という言葉に対して皆さんはどのような印象・イメージを持っていますか?

「肯定」は、受容、賛同、承認、支持、良い評価…等というポジティブなイメージ、それに対して「否定」は、批判、拒否、不承認、不支持、悪い評価…等のネガティブなイメージを持たれている方が多いのではないかと思います。

「肯定=ポジティブ=いいこと」
「否定=ネガティブ=悪いこと」

皆さんの中でこのような式が生まれていないでしょうか。

本当に肯定という言葉がポジティブなのか、否定という言葉がネガティブなのか…今回はこのことについて考えてみようと思います。

自由を奪う「肯定」の存在

否定が自由を生み、肯定が自由を奪う?

先日、「否定が自由を生み出すこともあるのではないか」という意見を目にしました。その人曰く、否定されることによって別の何かを模索しようとする働きが生まれ、それまで選択肢を1つしか持っていなかった人が、否定される事によって、別の新たな選択肢を見つけることができ、結果的に選択肢が増えるという点で自由を生んでいるのではないか、という事でした。
ここで誤解をしてもらいたくないのですが、これは「否定」が持つポジティブな面に目を向けただけであって、否定を推奨しているわけではない、という事です。

これに関して、私は「確かにそうだな」と思いました。否定の結果、否定された側の選択肢が増え、考え方やものごとへの取り組み方等が多様になり、それが生きづらさを解消することもあるだろうな、と。
(※選択肢が増えることが必ずしも自由に繋がるとは限らない、という点には留意しておきたい。自由に関して社会学者の岸政彦さんが著書『断片的なものの社会学』でこのように記しています。参考程度にどうぞ。これをどうと捉えるかは読者に委ねます。)

人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もう一つだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。

引用元:岸政彦『断片的なものの社会学』p.98

ただ、この「否定が選択肢を増やし自由を生み出す可能性がある」点について、私自身思うところがあって、否定によって自由を生み出せる人間は「切り替えの良さ」「行動力がある」「学力やEQ(心の知能指数)が高い」等何らかの”強さ”を持っている限られた人だけなのかなと考えています。
ちなみに、この文章を書いている私のように、1つの否定で私の全てを否定されたように感じてしまったり、否定されることによって選択肢が完全に失われ目の前が真っ暗になったりしてしまうような人間なら、「否定」が選択肢も自由も奪ってしまう恐れがあります。

選択肢を増やすための手段は「否定」だけではありません。こちらから選択肢を「提示」したり、傾聴的な態度で接して選択肢を引き出したりするという方法もあります。否定は人権尊重の観点から見ても多くの危険を孕んでいる可能性が高いと感じたので、私自身は推奨したくありません。

しかし、ここで大事にしたいのは「否定」を推奨するかどうかという事ではなく、「否定」にもポジティブな側面があると知っておく、ということです。

この「否定が自由を生む可能性」に気付いたとき、私は「では"肯定"はどうだろう」ということについても考えました。その時に、気付いたことがあります。それが「肯定は自由を奪う側面がある」ということです。
では、肯定が自由を奪うというのはどういうことなのか、もう少し具体的に探っていこうと思います。

褒めること・叱ること

おそらくほとんどすべての人が今まで生きてきた中で、褒められた経験、叱られた経験、どちらもあるのではないかと思います。
私自身も幼少期から現在に至るまで、日々褒められたり叱られたりして過ごしています。
一般的に、「褒められること」は嬉しいこと・良いことだと思われているのですが、自身のこれまでの経験を思い返してみると、褒められることで窮屈になったことがあるな、ということに気付きました。「褒める=肯定=ポジティブ」「叱る=否定=ネガティブ」というイメージを持っている方にとっては、新しい発見になるかもしれません。

例えば、「長時間テスト勉強をして、テストで高得点を取った」ということを褒められたとします。「勉強すごく頑張ってたもんね。高得点おめでとう」と親に言われた場合、子どもはどう受け止めるでしょうか。
「いい点を取ったら褒めてもらえた!親に喜んでもらえるのは嬉しい。テストでいい点を取ると褒めてもらえるんだな。これからもテスト勉強の時間をしっかり確保して頑張ろう」と思う人が多いかなと思います。
これだけを見ると、一見とてもポジティブで何も悪いことなんてないように思えるのですが、これは別の角度から見ると「選択肢を奪っている」とも捉えられるのでは?と考えました。どういうことか説明していきます。

親はなぜ子どもを褒めたのでしょう。その目的や思いについて考えてみます。主に次のようなことが挙げられると思います。

長時間勉強するという努力の大切さを分かってほしい。

次のテストでも高得点を取ってほしい。

子どもが高得点を取って、親として鼻が高い(自慢できる)。

努力することやテストで高得点をとることは、一般的に「良いこと」とされていると思います。このように、良い行動を褒め、その価値観を内面化させることを「教化」と言います。褒められた子どもは「”努力すること”や”テストでいい点を取ること”は良いことだ」という価値観を強固なものにしていきます。
子どもは褒められることによって、「長時間勉強(努力)すること」「テストで高得点をとる事」に囚われます。それは親からその行動をとるように仕向けられているとも捉えることができます。
こう考えると、褒めることが「選択肢」や「多様性」を奪っている側面もあるのではと思えてきます。
長時間勉強するという努力が悪いとは思いませんが、”ただ闇雲に長時間勉強する”ことだけがいいとは限りませんよね。効率的に勉強する、ということを覚えることによって空白の時間が生まれ、そこから新たな選択肢や可能性が生まれることだってあります。また、「テストで高得点を取ることはいいこと」という価値観があまりに強くなりすぎてしまった場合、テストで高得点を取れなかった時に自分を否定する原因になったり、テストで高得点を取れない人を馬鹿にしだしたりする可能性だって考えられるのです。

褒めることでその人の価値観を強固にしすぎたり、選択肢を奪ったりしてしまう可能性もある、ということを頭の隅に置いておくことはとても大切なことなのではないかと思います。
「褒めているのに、なんかうまくいかない」という事例は教育現場でもよく見かけました。私自身、先生や親から褒められる時に「先生や親が求めている人物像になるように仕向けられている」という感覚を持つことがありました。「自分が目標とする人物像」ではなく、「大人にとって都合のいい人物像」になるように演じさせられている(成長させられている)ような、そんな感覚を持ってしんどくなってしまった経験がありました。

「褒める=いいこと」というイメージ、価値観を持っている人は、このように「褒めることによる悪影響」の部分にも目を向けてみる必要があるのではないかと私は思っています。褒めることのネガティブな側面を知ることで、よりレベルの高い「褒める」という行為が実現するのではないかと考えています。

何かを否定するための「自己肯定感」

「自己肯定感がある」と自称している人の中で、誰かを否定せずにはいられすにいる人を時々見かけます。「自分を肯定すること」については全く問題ないと思うのですが、自分の”良いところ”を肯定しすぎることによって、その対になるものを持っている人に対しそれを否定的に捉えすぎる(悪だと捉える)のは問題かな、と思っています。
自分の価値観を肯定することで、その価値観がどんどん強固なものになっていくと、その価値観に外れたものに対して否定的な感情がより強まってしまう傾向が人間にはあるように思います。肯定は「自分を強くしてくれる」という点ではいいものだと思うのですが、それによって「他者を貶めてしまう」のであればそれは考えものです。

本当の自己肯定感を持っている人は、「多様性を認められる人」だと私は考えています。自分の価値観も肯定でき、他者の価値観も肯定できる。その肯定は”善/悪””良い/悪い”の価値判断を下さず、良いか悪いかは置いておいて”そこに存在するものを認める”という力のことを指しているのではないかと思います。

そう、肯定に「評価」や「価値判断」は必要ないのです。
だから、「肯定=ポジティブ=いいこと」という価値観が出来上がってしまっているひ人は、この「肯定」という言葉のイメージを捉え直す必要があるのではないかと私は思うのです。

言葉のイメージを捉え直すということ

肯定という、”いいもの”だと捉えられがちな言葉のイメージを崩してくれた文章があるので紹介します。”批評の神様”と呼ばれた小林秀雄さんの文章です。

ある対象を批判するとは、それを正しく評価する事であり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ。
引用元:小林秀雄『読書について』p.137

『読書について』という作品の「批評」という章において、小林秀雄さんはこのように書かれていました。
今回は特に前半部分に注目してください。

・批判は正しく評価する事。
・正しく評価するとは、その在るがままの性質を積極的に「肯定」する事。

と書かれています。

この文章を読んだ時に、「肯定って必ずしも”いいこと”に対して行うことではないんだな」という事に気付かされました。「在るがままの性質を積極的に肯定する」ということは「自分の価値判断は一旦置いておいて、その対象のものをありのまま受け入れる」という事なんだと、私は解釈しました。他の章でも、”自分の価値基準は置いておく”という事を繰り返し書かれていたのでおそらくこの解釈で合っているのではないかと思います。
小林さんの考える批判は「批判=積極的に肯定する事」なのです。

批判という言葉は「否定」という意味合いで使われることが多いように思います。国語辞典で調べてみると、批判にはそういう「否定」の意味も含まれていたのですが、必ずしもそれだけに使われる言葉ではないのです。

この文章から、私は「肯定」「否定」「批判」という言葉に対するイメージが変わりました。今までは「肯定か否定か」みたいな極端な分断をしてしまっていましたが、前の章でも述べたように、肯定にはネガティブな意味が含まれていることがあり、逆に否定にはポジティブな意味が含まれていることがあるという発見もしました。肯定と否定は”二分されるもの”というより、どちらかというと”表裏一体”という感じで捉えた方が良いように思えました。これが適切な表現かは分かりませんが…。

世間では「ポジティブワード」「ネガティブワード」という分類をしてしまっている言葉がたくさんあると思います。その言葉たちは本当にポジティブな要素しかないのか、ネガティブな要素しかないのか、というところをしっかりと見つめていく必要があると思います。そうやって言葉と向き合っていくことで、なにか本質的なところが見えてくるかもしれません。

言葉のイメージを捉え直す…私たちが本当の”多様性の尊重”を実現するには、この作業が必要になってくるのかもしれません。

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