自分に続く人たちに伝えたいものはあるか?~映画『春に散る』~

※ネタバレあります。未見の方はご注意ください。







「老いた元ボクサーが、若いボクサーを指導して、栄光を掴む物語」
映画『春に散る』のストーリーを一言で表現すれば、こんな陳腐なものになってしまいます。
実に使い古されたシナリオであり、同様の物語を描いた創作物は山ほど存在するでしょう。

しかしこの『春に散る』は、そういった「よくある物語」としての印象はかなり薄くなっています。
その理由はどこにあるのか、考えてみたところ「テクニックの継承ではなく、人間同士の結びつきの面に重点を置いているため」なのではないか、との考えに辿り着きました。

もちろん、ボクシングの指導をしているシーンは何度も描かれています。
しかし具体的なテクニックの指導をおこなっているシーンは、数えるほどしか出てきません。
テクニックの指導を見せるより、トレーニングを通じて、そしてプライベートを通じて、登場人物たちがどのように人間関係を、心の結びつきを築いていくか、を見せていたのではないでしょうか。
ボクサーとしての成長よりも、まるで父親と息子のような関係性をふたりがどう作り上げていくのか、が物語のメインとなるため、よくある成長物語のような印象を受けにくくなっているわけです。

ただしこれにはちょっとデメリットもあって、横浜流星演じるボクサーの若者「黒木」のボクサーとしての成長が見えにくくなっていました。
そのため佐藤浩市演じる「広岡」の指導で黒木が強くなった、という実感を、映画を観ていて得にくい、とは感じたのは事実です。
ただこれはクロスカウンター、広岡と黒木の出会いとなったシーンで見せられたテクニックを、要所要所で織り込むことでかなりクリアされてはいるでしょう。

私が「テクニックの継承シーンが少ない」と感じた原因は、単純に私が年齢を重ね、物語で言うところの「教える側」に近くなったためかもしれません。
年齢を重ねると、ずっと携わってきた「自分の仕事」について、自分が培ってきた技術を継承したい、との思いも生まれてくるものです。
半ば「世捨て人」のように生きようとしていた広岡が、黒木と出会って再び全力で走りだした理由は、この「継承したい」という思いが広岡のなかで生まれてきたためでしょう。

しかし我が身を振り返ってみれば、それなりに生きてきたため培ってきたものはなくはないものの、それを誰かに継承する価値のあるものとは特に思えない始末。
そもそも根無し草の自由業でもあって、継承するような相手もいないのが現実です。
それが辛い、とは思いませんが、広岡のように熱くなれる機会もないか、と思うと少し寂しくは感じてしまいます。

自分に続く誰かに伝えたいものがある、そして伝える相手がいて、伝える機会があるというのは、幸せなことなのかもしれませんね。

小難しい話はさておき。
ボクシングの試合シーン、すごく良かったです。
横浜流星、プロライセンスを取ったそうですが、映画の中の試合なのに思わず熱くなってしまうくらい迫力がありました。
世界王者戦、最終ラウンドのスローモーション演出は、ちょっとどうだろうと思いましたが。

あと若干、全体的に説明不足感があるのは否めないかな、と。
ひとつひとつ細かく説明しなきゃならない、とは思いませんが、ちょっと展開が唐突に感じる部分はありました。

多少気になる点はあったものの、全体的に満足度は非常に高かった作品です。
佐藤浩市の渋さ、横浜流星のギラギラした若さ、そして周囲を固める役者、すべて楽しめました。

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