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漫画と落語:田河水泡『のらくろ』 2

昭和恐慌と『のらくろ』の時代

 田河水泡の漫画『のらくろ』シリーズは、猛犬連隊に入営した野良犬の黒吉、通称「のらくろ」が不慣れな軍隊生活でドジを踏み続けるナンセンスギャグ漫画である。「のらくろ」のしくじりが偶然にも功を奏して手柄を立てることになり、勲章をもらって出世していく……といった内容だ。いわば「のらくろ」は落語における与太郎のような存在といえる。
 のちに田河は「子供に人気の『犬』と『戦争ごっこ』を組み合わせれば人気が出るだろうと着想した」と、述懐している。

 1931(昭和6)年、『のらくろ二等卒』は、月刊誌「少年倶楽部」(大日本雄辯会講談社)新年号から連載を開始する。
 昭和6年といえば、いわゆる「昭和恐慌」が日本に直撃した時期である。1929(昭和4)年10月のウォール街の株価暴落に端を発する「世界恐慌」が日本にも影響を及ぼし、日本全体が深刻なデフレに見舞われ、農村では青田売りや女子の身売りが問題となっていた。

 この当時、「少年倶楽部」の価格は50銭。白米1升が18銭、ビール大瓶1本が38銭の時代である(昭和5年の物価)。大卒の初任給が50円(銀行員)との記録が残るが、当時の大学進学率の低さ(10%未満)を考えると、現代の「大卒初任給」と単純比較するわけにはいかないが、ともあれ「大卒初任給の1%相当」と考えると、雑誌は高級品といえた。
 不景気の時代にまず削られるのは娯楽や嗜好品だ。「少年倶楽部」を毎月購読できた子供は「クラスに数人程度」だったとの証言も残る。

月月の雑誌を買うことも出来ない多数のプロレタリア児童がいる、その子供達は人の読古した雑誌を貸して貰って、借りた本としてのひけ目を感じながら遠慮っぽく頁をめくっているに違いない。だからこれらの借りて読む子供達の為の味方になれるものを描こうと思ったのだ。

「文藝春秋臨時増刊 漫画讀本」(文藝春秋)

 決して裕福ではない子供を勇気づけたい。田河にはそんな思いがあった。昭和恐慌時代の貧しい子供に寄り添うためには、主人公の「のらくろ」は読者より不遇でなければならない。その不遇さは「のらくろ」のビジュアルにもあらわれている。

 この当時、四本の足先が白い犬は不吉であるとされ、忌避されていた。もともとは「尾先四白おさきよつじろ」といって、尾と四足の先の白い犬には霊力があると信じられていたことに由来する俗信だが、競馬の世界でも「四白流星(流星は額の模様)は縁起が悪い」と言われたように、四足の先が白い動物全般が嫌忌されていたのである。パッと見では、四本の足にストッキングをはいているようで可愛らしく思えるが、それは現代人の感覚であり、四白を嫌う風習は比較的最近まで残っていた。

 「のらくろ」は全身が真っ黒で四白の野良犬である。天涯孤独で親の顔を知らず、不吉だからと世間から忌避され、居場所を求めて軍隊に入営する……。見た目の可愛らしさやストーリーのコミカルさとは裏腹に、「のらくろ」のバックグラウンドには仄暗い影があった。

出世する「のらくろ」

 田河の目論見は的中した。連載開始後の『のらくろ二等卒』は、すぐに人気を博す。

もとは新兵二等卒、二年目は一等兵、あと半年は上等兵に進級させて終るつもりでいたところ、のらくろ君、がんばれ、というファンレターがたくさんくるようになったので、その様子を判断した編集長の加藤謙一さんは、これだけファンのついた漫画を二年でやめる手はない。下士志願させて、伍長に任官させて、三年続けようといったので、二年で消えるはずの連載漫画は一年延びることになりました。

『のらくろ漫画大全』田河水泡(講談社)

 この証言からも「2年目には上等兵に進級させて、現役2年で満期除隊」というのが、当初の田河の構想であったことがわかる。
 1932(昭和7)年、連載2年目に突入した『のらくろ』は、二等卒から一等卒に進級する。それにともなって作品タイトルも『のらくろ二等卒』から『のらくろ一等卒』に改められた。

 なお、『のらくろ』シリーズにおける階級は、当初は田河自身の従軍経験(1919~1921年)に準拠していた。そのため、「二等卒」「一等卒」といった階級が用いられていたが、のちに連載当時の陸軍の軍制にあわせて、作品タイトルは『のらくろ二等兵』および『のらくろ一等兵』と改題される。
 このように、劇中の主人公の社会的地位の変化にあわせてタイトルを改題していく例は、『島耕作』シリーズ(弘兼憲史)や『アフロ田中』シリーズ(のりつけ雅春)など、あまり多くはない。

 『のらくろ』シリーズの魅力は、まず何といってもキャラクターの可愛らしさや愛嬌が挙げられる。それでいて、子供が真似して描けそうな造形が受け入れられたのだろう。
 また、子供に人気の「戦争ごっこ」のアクション性、さらには落語の滑稽噺のような各話の軽妙なサゲ(物語の結末)なども魅力といえる。
 ここに「出世」というサクセスストーリーの要素が付加されたことで、田河の思惑をはるかに超え、『のらくろ』フィーバーは過熱していった。

社会現象になった『のらくろ』

 1932(昭和7)年12月、それまでの雑誌掲載分をまとめる形で単行本『のらくろ上等兵』が刊行された。この『のらくろ上等兵』は、それまでに刊行されていた田河の単行本『漫画の罐詰』(1930年)や『漫画常設館』(1931年)と同様、カラー印刷で箱入り書籍、表紙は布クロス製と、漫画本としては非常に豪華なつくりをしていた。

昭和44年に復刊された『漫画の罐詰』田河水泡(講談社)

 大日本雄辯会講談社が同時期に出版していた文芸作品や全集と似た体裁で、価格は1円であった。前出の「少年倶楽部」の値段(50銭)や当時の日本の経済状況を考えると、子供が簡単に手を出せるシロモノではない。

 ところが、この単行本が売れに売れた。
 銀座のデパートには開店前から行列ができたという逸話が残っているほどだ。1959(昭和34)年に刊行された講談社の社史『講談社の歩んだ五十年』によると、『のらくろ上等兵』の初版は「13万4千部」で、翌1933(昭和8)年に刊行された『のらくろ伍長』の初版は「12万5千部」であった。田河本人は「単行本を出せば一気に百五十万部が売切れといった有様」と回想している。

 当時の「のらくろ」人気が垣間見えるエピソードを紹介したい。
 1933(昭和8)年、東京の上野では「萬国婦人子供博覧会」(3月17日~5月10日)が開催された。上野公園を中心として池之端や芝浦が会場となり、さまざまな展示館や乗り物が設けられた。
 この博覧会の最大の目玉はドイツから招聘したハーゲンベックサーカスで、これが日本では初めての本格的なサーカス興行であり、これを機に日本でもサーカスが普及したといわれている。この博覧会では「のらくろ不思議館」というパビリオンがあり、戦車の形をした建物の屋根の上に、巨大な「のらくろ」のハリボテが鎮座していた。ハリボテの「のらくろ」の階級章を見るに、『のらくろ伍長』の頃だ。

 また、後年の映画作品にも、『のらくろ』人気を物語るシーンが見られる。それが1963(昭和38)年に公開された映画『拝啓天皇陛下様』だ。

1963年公開『拝啓天皇陛下様』

 この映画は、昭和6年に主人公・棟本博(長門裕之)が岡山の歩兵第10連隊に入営するところから物語が始まる。棟本が軍隊で出会う「ヤマショウ」こと山田正助(渥美清)は、幼い頃に親と死別して天涯孤独になった純朴な青年だ。ヤマショウは親戚の家を転々とした境遇から、まともな教育を受けることができず、入営時の宣誓書に自分の名前を漢字で書くことができない。やがてヤマショウが二年兵になると、中隊長からの命令で、代用教員をやっていた初年兵の柿内二等兵(藤山寬美)から勉強を教わることになる。
 読み書きができるようになったヤマショウは、書店で「少年倶楽部」を購入し、寝台で『のらくろ』を音読するのであった。このシーンは、劇中では昭和7年の出来事として描かれる。

 『拝啓天皇陛下様』は棟田博の同名小説を原作としている。原作にはヤマショウが『のらくろ』を音読する描写はない。

「上等兵殿。これを営内に持ち込んでいただけんでしょうか。初年兵の自分では、もし衛兵に発見されると、どえらいことになりますけェ」
 柿内が差し出したのは一冊の雑誌である。
「少年倶楽部」であった。山中峯太郎「敵中横断三百里」大仏次郎「日本人オイン」といった文字が目次に見えた。
「国定教科書はおもしろくないもんですけェ。これなら喜んで勉強してつかあさると思って」

『拝啓天皇陛下様』棟田博(光人社NF文庫)

 柿内二等兵が営内に持ち込もうとするのは「少年倶楽部」だが、そこで名前があがるのは『のらくろ』ではなく、山中峯太郎の『敵中横断三百里』や大仏次郎『日本人オイン』といった、当時「少年倶楽部」に掲載されていた少年小説のベストセラーである。わけても『敵中横断三百里』は、戦前に黒澤明が脚本化し、1957(昭和32)年に黒澤脚本で『日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里』(森一生監督)として映画化されているので、名前を出しやすかったのかもしれない。

 原作者の棟田博(1909〜1988)と映画監督の野村芳太郎(1919〜2005)はともに軍隊経験があるが、棟田は昭和4年入営、野村は昭和17年入営と、年次に差がある。
 劇中の「昭和7年(1932)」を当てはめると、棟田は成人して入営済みであるのに対し、野村はまだ13歳。リアルタイムで子供だった野村からすれば、ようやく読み書きができるようになったヤマショウが読むものとしては、少年小説よりも『のらくろ』のほうが妥当と考えたのだろう。『のらくろ』ブームの直撃世代だからこその、原作からの改編であると推測される。
 また、映画ではヤマショウが天涯孤独の「のらくろ」に自身の境遇を重ねて憐れむセリフが追加されたことで、作品に多層性を付与することにも成功している。
 ともあれ、昭和7年当時の子供事情を知る世代からすれば、『のらくろ』フィーバーは常識であった。『のらくろ』は、子供たちから熱狂で迎えられた作品なのである。

 そうした子供のひとりに、手塚治虫がいた。


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