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第3巻:日本代表になりた〜〜いの巻

第3巻データ・アナリティクス

300万部を突破した「少年ジャンプ」

※掲載順は漫画作品のみ(特集記事、小説、記事広告、読者投稿ページは除く)。
「掲載順=人気」とは一概に言えないが、人気を測るバロメータのひとつとして参照する。
1号あたりの漫画の掲載本数は15〜18本。
単行本3巻の発行日は1980年7月15日。

元「少年ジャンプ」編集長の西村繁男は、この当時の「少年ジャンプ」の発行部数について自著で次のように証言している。

(略)五十四年の年末最終号で、『少年ジャンプ』はついに三百万部を突破し発行数三百四万五千部を記録する。

『さらば、わが青春の『少年ジャンプ』』西村繁男(幻冬舎文庫)

300万部突破を受けて、1980年に最初に発行された3・4合併号(発行日は1月21日、「新春オールスター大集合!」の付録あり)では「300万部への歩み」という特集記事が組まれた。
この大躍進の原動力となったのは『リングにかけろ』(車田正美)で言を俟たない。そして、この時期に『キン肉マン』も着実に人気を獲得していった。それは、上記の掲載順の安定度からもうかがえる。

上記期間(1979年49号〜1980年12号)で躍進したのは『テニスボーイ』(原作:寺島優、作画:小谷憲一)で、14週のうち巻頭カラー4回、表紙1回を飾っている。小谷憲一のアップ・トゥ・デートな絵柄は、カラー原稿に耐えうる見栄えのよさがあった。1979年31号にスタートした同作は、1982年9号まで2年以上連載が続くことになる。
『キン肉マン』第3巻収録の「大逆転!の巻」では、カレクックのカレー・ルーの刺激により、キン肉マンがジャイアント馬場や「岡崎さん」へと姿を変える。この「岡崎さん」とは、『テニスボーイ』で主人公・飛鷹翔とペアを組む岡崎涼子のことを指す。
つまり「少年ジャンプ」1980年7号は、巻頭に『テニスボーイ』を掲載し、その直後の『キン肉マン』で『テニスボーイ』のパロディをやっているわけだ。なかなか攻めた構成である。

第3巻収録話の連載期間の出来事

5・6合併号から『Dr.スランプ』(鳥山明)が連載を開始する。「アラレ誕生!の巻」と「オ〜ッス!の巻」の2本同時掲載という異例のデビューではあるが、5週連続新連載攻勢のラスト枠、新人の連載デビュー枠、ギャグ漫画枠と『キン肉マン』との共通項は多く、どちらも社会現象を起こすメガヒット作品へと成長していく点も共通している。

1979年52号に掲載された「最終予選 - 月への往復マラソンの巻」では、ジェット噴射器の貸し出しで係員にゴネる不良超人が出てきた際に「極道きわめみち高校でてんじゃないの」とのセリフがあるが、これはもちろん『私立極道きわめみち高校』(宮下あきら)のことを指す。
同作は、実在の中学校の名前、校章、生徒の名前などを使用(アシスタントが同級生の名前を無断使用したもの、とされる)したことから抗議を受け、「少年ジャンプ」9号は回収。同作品は11号で連載終了となった。
この9号の表紙が『キン肉マン』であった。20号ぶりに巻頭カラーを飾ったものの、市中在庫が回収されて流通量が限られた結果、現在でも古本市場では他の号に比べて入手が困難だ。
『キン肉マン』が単独で本誌の表紙を飾るのは、これ以降、1982年18号まで2年以上かかってしまう(オールスターキャストやギャグ漫画集合など、他作品との同時表紙はあり)。

『キン肉マン』に影響があったと思われる出来事としては、1980年1号からの『リッキー台風タイフーン』(平松伸二)の連載開始を挙げておきたい。本作品はプロレスを題材にした作品で、作中には実在のプロレスラーが実名で登場する。
主人公のリッキー大和はルー・テーズのトレーニングを受けた日本人レスラーで、ジャイアント馬場に全日本プロレス入りを直訴する。一方の新日本プロレスには、カール・ゴッチの愛弟子ナルシス・シュトラウスが入団。リッキーのライバルとなる。テキサス育ちのテリー・ブロンコというキャラクターはスピニング・トゥ・ホールドを得意とするが、これはテリーマンと着想元(テリー・ファンク)が一緒だから、両者が似るのもむべなるかな、である。
『リッキー台風』が連載を開始した1980年1号には、『キン肉マン』の「最後の8人めの巻」が掲載された。超人オリンピック決勝トーナメント進出の8人目の座をめぐって、キン肉マンを含む10名でのバトルロイヤルが繰り広げられる。次週以降の決勝トーナメントから超人プロレスが本格化するが、そのタイミングで「実在のレスラーが作中に登場するプロレス漫画」が同じ雑誌でスタートしたわけである。「超人プロレス」という点で棲み分けはできているが、読者を食われる危険性も孕んでいた、との見方もできる。

オリンピック騒乱

モスクワ五輪のボイコット

1974年10月23日、オーストリアのウィーンで開かれた第75回国際オリンピック委員会(IOC)総会で、1980年の五輪は、夏季はモスクワ(ソビエト連邦)、冬季はレークプラシッド(アメリカ合衆国)で開催することが決定した。現在とは異なり、当時は夏季五輪と冬季五輪が同年開催だった。
それぞれの開催日程はレークプラシッドが2月13日〜24日、モスクワが7月19日〜8月3日である。

『キン肉マン』が連載を開始した1979年当時の日本国内の状況としては、五輪を盛り上げる機運が高まっていた。とくにテレビ朝日は、日本では初となる民放による独占放映権を取得し、さらにはモスクワ五輪のマスコットキャラクター「ミーシャ」を用いたテレビアニメ『こぐまのミーシャ』(1979年10月6日〜1980年4月5日放映)をスタートさせている。

「超人オリンピック編」がスタートする「日本代表になりた〜〜いの巻」が掲載された1979年49号の発行日は12月3日。続く「第一次予選の巻」ではミートくんが超人オリンピックのマスコットに選ばれ、キン肉マンが「かわいさならわたしのほうが 上だ モスクワ五輪のミーシャにだって ひけはとらん!」と憤慨するシーンがあるように、テレビ朝日のアニメの効果もあって、ミーシャの知名度はかなり高かったようだ。

超人オリンピックの開会式が行われた旧国立競技場。
1964年の東京五輪ではメイン会場として使用された。

だが、1979年12月24日、ソビエト軍がアフガニスタンに軍事侵攻を開始した。これに西側諸国が反発し、モスクワ五輪のボイコットを表明する。日本国政府はこれに追従し、ボイコットの“方針を打ち出す”。
最終的にボイコットを「決定」したのは日本オリンピック委員会 (JOC)であった。5月24日のJOC総会で投票を行い、日本選手団のモスクワ五輪ボイコットが正式に決定した。
この間、レークプラシッド冬季五輪は無事に開催され、ソビエトも参加したものの、モスクワ五輪は日本を含む50カ国が不参加となる。

「少年ジャンプ」の五輪戦略

上記のとおり、JOCがボイコットを正式に決定するのは5月24日と、開会2カ月前までズレこんでしまった。前年から動かしていた五輪関連の企画にストップをかける判断は難しく、「少年ジャンプ」では7号(2月18日発行)から10週連続で「’80オリンピックに燃える日本のホープ!!」という巻頭特集を組み、アスリートを毎週ひとりずつ紹介した。この企画で取り上げたアスリートは以下のとおり。
 ・7号:瀬古利彦(マラソン)
 ・8号:渡部絵美(フィギュアスケート)
 ・9号:高田裕司(レスリング)
 ・10号:高橋繁浩(水泳・平泳)
 ・11号:具志堅幸二(体操)
 ・12号:甲斐・小宮組(ヨット)
 ・13号:冨山秀明(レスリング)
 ・14号:藤猪省三(柔道)
 ・15号:平井一正(重量挙げ)
 ・16号:山下泰裕(柔道)
このうちレークプラシッド五輪の代表は、開催時期との兼ね合いもあり、フィギュアスケートの渡部絵美のみ。1979年の世界選手権では日本の女子選手としては史上初となる銅メダルを獲得し、五輪代表としてレークプラシッドでは6位に入賞する。
巻頭で渡部絵美が特集された8号での『キン肉マン』は、「武道館の仕掛けの巻」。氷でつくられたリングを舞台に、キン肉マンとラーメンマンが氷上デスマッチで対戦する。試合に先駆け、特別ゲストとして「レーク・プラシッド冬季五輪のフィギュアスケート日本代表の渡辺美絵」というキャラクターが氷上リングでデモンストレーションを披露する。
つまり、渡部絵美が巻頭で特集される号に、彼女をモデルにしたキャラクターを作中に出しているわけだ。こうした仕掛けは、作者の判断だけでできるものではなく、担当編集氏との協力が不可欠である。ある意味では、「少年ジャンプ」編集部の五輪キャンペーンにおいて、『キン肉マン』は漫画の面での担い手であったともいえる。

パロディの補足

「超人オリンピック編」関連で、現在では少しわかりにくくなっているパロディネタについて少し触れておく。
「第一次予選の巻」から登場する解説者のタザハマというキャラクターは、日本テレビの全日本プロレス中継で解説をしていたプロレス評論家の田鶴浜たづはま弘がモデル。

また、予選突破をかけてキン肉マンと争うアフリカ代表のキンターマンは、アメリカのテレビドラマ『ルーツ』の主人公クンタ・キンテ(レヴァー・バートン)のイメージが重ねられていると思われる。
西アフリカのガンビアで生まれた少年クンタ・キンテは白人に捕まり、アメリカに奴隷として売られてしまう。『ルーツ』はこのクンタ・キンテを祖とする親子三代の物語であり、アメリカにおける黒人奴隷の問題を真正面から取り上げた社会派ドラマで、アメリカ本国では1977年1月に放映されて大反響を呼び、日本では1977年10月2日から9日にかけて8夜連続で放映された。最終回の視聴率は28.6%を記録し、翌1978年にも再放送されている。
「少年ジャンプ」編集部では、ある編集者がこの主人公に似ていたらしく、彼を模した「クンタ」と呼ばれるキャラクターが、この時期のさまざまな作品に顔を出している。また、1979年の「少年ジャンプ」には、およそ2号おきに「走れクンタキンテ! アドリブ・アタック」という企画記事が巻末に掲載されていた。1979年5・6合併号から1980年2号まで合計24回掲載されたので、「クンタ・キンテ」の語感はジャンプ読者にはなじみのある響きだったはずだ。
なお、キンターマンはアニメ化の際には「クンターマン」と改名されているので、そもそものルーツが「クンタ・キンテ」にあるのであれば、納得のいく名称変更といえる。

シリアス路線を受容できる「絵」

超人オリンピックの競技は、予選はじゃんけん、怪獣重量挙げ、月往復マラソン、バトルロイヤル(決勝トーナメント進出者決定戦)。そして、決勝トーナメントからプロレスになるが、この時点で作品全体が「格闘プロレス路線」に舵を切ったかというと、そうとは言い切れない。
決勝トーナメントAブロックでは「テリーマンvsスカイマン」戦のようにシリアスなプロレスシーンが描かれるものの、キン肉マンのいるBブロックは「キン肉マンvsカレクック」戦に象徴されるようにコミカルな要素が多く、従来のギャグ漫画路線の色合いが強い。ラーメンマン戦でさえ、キン肉マンがちびってしまい、ミートくんが「町内のジャイアント馬場」の胸板を洗濯板がわりにする、というギャグシーンが挿入される。
リアルなAブロック、コミカルなBブロック……ではあるが、キン肉マンは相手の技をすべて受けきってから逆転する「風車の理論」的なファイトスタイルなので、Bブロックの敗者のほうが読者の印象には残っているのではないだろうか。
本作が「超人プロレスを描く」と割り切るのはもう少し先のことで、この時点では「超人にオリンピックをやらせる」発想の延長線上のような印象を受ける。

第3巻後半から第4巻にかけては、作画の面での変化に注目したい。顕著なのはAブロックの試合(ロビンマスクvsカナディアンマン、テリーマンvsスカイマン)だ。絵のリアリティが格段に上がっていることがわかるだろう。これは、カナディアンバックブリーカーやコブラツイストといった実際のプロレスの技をリアルに描くには、現実に即した頭身バランスや体型がもっとも適しているからだと推測される。第1巻から継続して登場しているテリーマンの体型を比較すれば、その変化はわかりやすい。
対してコメディタッチのBブロックは、準決勝「キン肉マンvsラーメンマン」戦にいたっても、まだ丸みを帯びた従来のフォルムを維持している。Aブロック「ロビンマスクvsテリーマン」戦とBブロック「キン肉マンvsカレクック」戦を見比べると、同じ作品とは思えないほど、絵もストーリー内容も、リアリティ水準があきらかに異なっている。

そして次巻以降、本作の作画はAブロック路線に寄っていき、リアリティの水準を高めていく。第4巻ラストの頃になると、劇画とアメコミをミックスしたような絵柄へと変貌を遂げるのだが、その分水嶺が第3巻であった。
ストーリー漫画かギャグ漫画か、作品の路線が(少なくとも読者には)不安定なこの時期において、しかし作画の面においては、すでに「本格的なストーリー漫画を受容しうる絵」を用意できていたのである。

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