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漫画と落語:田河水泡『のらくろ』 10

日本最初のロボット漫画『人造人間』

 これまで田河水泡(高見澤仲太郎)は「新しいもの好き」である点に言及してきたが、その新取の気風は漫画家としてもいかんなく発揮された。
 なかでも、連載作品『人造人間』に注目したい。この作品は、雑誌「冨士」(大日本雄辯会講談社)の1929(昭和4)年4月号から1931(昭和6)年12月号にかけて掲載された。

 掲載誌の「冨士」は、この前年の1928(昭和3)年に創刊された新雑誌で、のちに大日本雄辯会講談社の九大雑誌(「キング」「講談倶楽部」「冨士」「幼年倶楽部」「少年倶楽部」「少女倶楽部」「雄辯」「現代」「婦人倶楽部」)の一角を担うようになる。
 なお、太平洋戦争が始まる頃になると、「冨士」は用紙不足から休刊となってしまう。また、「キング」は“敵性語”ということで、誌名を「キング」から「富士」(1943~1945)に変更される。このため、講談社の歴史上、「冨士」と「富士」という雑誌が存在したのだが、別物であることに注意しておきたい。

 話を『人造人間』に戻す。
 『人造人間』は、博士とロボットのやり取りを中心とするコメディ作品である。ロボットが博士の身の回りの世話をするのだが、食事の用意や掃除をやらせても、ヘマばかりやらかしてしまう。基本的なストーリー構造は落語の与太郎ものと同じだ。このロボットは、作中では「ガム」とか「ガムゼー」と呼ばれている。
 『人造人間』は「日本最古のロボット漫画」と目されており、『ロボット三等兵』(前谷惟光)や『がんばれ!!ロボコン』(石ノ森章太郎)、『21エモン』(藤子・F・不二雄)のゴンスケなどの源流であり、ロボットコメディものの元祖ともいうべき作品だ。
 なお、作中ではフキダシを使わず、コマ内にセリフがそのまま書かれているのも特徴的である。

ガムゼーのモデルはエリック?

 ガムゼーの外観に関してだが、モデルはおそらく「エリック」だろう。
 「エリック」とは、1928(昭和3)年にロンドンの王立園芸ホールで開催されたモデルエンジニア協会の展覧会で展示された世界初のロボットのことである。動いて声を出すという機能しか持たなかったが、「エリック」という名を与えられた世界初の人型ロボットに、世界中の人々が驚嘆した。

 「エリック」の胸には「RUR」と3つのアルファベットが書かれていた。これは、チェコスロバキアの小説家カレル・チャペックが1920(大正9)年に書いた戯曲『R.U.R.(ロッサム万能ロボット商会)』を意識したものだ。
 そもそも「ロボット(robot)」は『R.U.R.』に登場した言葉であり、チェコ語の「robota(隷属)」とスロバキア語の「robotnik(労働者)」からつくられた造語である。
 この『R.U.R.』は、宇賀伊津雄によって1923(大正12)年に英語経由で翻訳された。邦題は『人造人間』(春秋社)である。それ以前にも「Robot」を「ロボット」とカタカナ表記する記述はあったようだが、「Robot」に「人造人間」の訳語を当てたのは宇賀訳が初であり、「人造人間」の語の初出とされる。

 2017(平成29)年には、英国科学博物館がクラウドファンディングサイト「kickstar」で資金を募り、この「世界初のロボット」の完全復元をし、新生エリックは英国科学博物館に展示されることになった。なお、新生エリックの胸にも、もちろん「RUR」の三文字はプリントされていた。

 ガムの胸には「RUR」の文字こそ書かれていないものの、手足の関節部分の接合箇所などの意匠は「エリック」と同じで、外見的なフォルムは「エリック」にそっくりだ。ガムのほうが頭部が丸く、全体的に丸みを帯びている点にオリジナリティが見受けられる。腰部が黒ベタで塗られており、ちょうど新日本プロレスの若手レスラーが黒パンツを履いたようなスタイルだ。 おそらく田河は雑誌か何かで「エリック」を見て、漫画に取り入れるにあたり、子供向けにアレンジしたものと推測される。

 子供向けのアレンジとしては、フォルムだけでなく、ガムのキャラクターも親しみやすいものになっている。ガムは雪だるまの中をくりぬいて中に入り、雪だるまが動いているように見せかけ、往来の人々を驚かす。そのときに「みんなおどろいでやがらア」と言う。
 また、博士から尋常小学校の1年生に入れられた際に「ヤダ ヤダ こんなまねが出来るものか」と駄々をこねる。
 あるいは、かまどで飯炊きに失敗して「ヤツ 飯がこげついてらァ」と言うなど、ロボットのくせに落語口調の下町言葉を使うのは滑稽で、ガムには独特な愛らしさがある。

 実際に子供には人気だったようだ。たとえば手塚治虫は、デビュー前の旧制中学時代(1945年)、ノートに『勝利の日まで』という習作を描いていた。この習作は、フクちゃんやのらくろ、ミッキーマウス、フェリックスなど、東西の人気キャラクターが登場する二次創作なのだが、この中に博士とガムが描かれている。このように「人造人間ガム」は、子供の心に響いたのであった。

「手塚治虫〜過去と未来のイメージ展〜」図録の付録特典『幽霊男/勝利の日まで』。

同時代におけるSFロボット事情

 アンドロイドが初めて映画のスクリーンに登場したのは、1927(昭和2)年のドイツ映画、フリッツ・ラングの『メトロポリス』とされている。
 女性型アンドロイドのマリアが印象的で、後世の映像作家たちに多大なインスピレーションを与えたエポックメイキングな作品である。
 手塚治虫もそのひとりで、同名タイトルの『メトロポリス』(1949年)という作品がある。

この人工人間は、戦前のドイツ映画の名作『メトロポリス』のロボット女性のイメージをもとにしたのです。といっても、ぼくはこの映画をそれまで観たことはありませんし、内容も知りません。ただ、戦時中の『キネマ旬報』かなにかに、この映画のスチールが一枚載っていて、ロボット女性が誕生するシーンだったのです。それをおぼえていてヒントにしたまでです。『メトロポリス』というひびきがたいへん気に入って、同じタイトルを使ったので、別に映画とはなんのかかわりもありません。

『手塚治虫漫画全集44 メトロポリス』手塚治虫(講談社)

 『メトロポリス』がドイツで劇場公開されたのは1927(昭和2)年1月10日。エリックの公開(1928年)や『人造人間』(1929年)より早い。とはいえ、『メトロポリス』の日本公開は1929(昭和4)年4月3日なので、田河が『人造人間』執筆前に『メトロポリス』を観ていた可能性は低い。

 また、日本SFの始祖のひとりとされる海野十三が『人造人間ロボット殺害事件』を書いたのは、雑誌「新青年」(博文館)の1931(昭和6)年1月号。これらと比較しても、田河水泡『人造人間』は、最初期のロボットブームの、その端緒であったことがわかる。

 ロボットという概念が世に出始めた最初期の段階において、ロボットという先進性と、落語という“古典”趣向が、まったく無理なく同居できていたのが田河水泡の特異性ではないだろうか。


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