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漫画と落語:田河水泡『のらくろ』 7

田河水泡の軍隊経験

 幸福な修業時代は、突如として終わりを告げた。
 1919(大正8)年、満20歳になった仲太郎は、本籍地の本所区で徴兵検査を受けたところ、甲種合格となってしまった。

 これは仲太郎にとって、まったく不幸な出来事であった。一ノ瀬俊也『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書)に掲載されているデータを参照すると、これと近い1921(大正10)年の徴兵検査受検者は約55万人で現役入営したのは約13万6千人。つまり、この頃は軍隊に入るのは「4人に1人」の割合であった。
 8割近くが現役入営した太平洋戦争末期ならいざ知らず、軍縮に向かっていたこの時期に「甲種合格」というのは、不運であったとしか言いようがない。

 同年12月、仲太郎は麻布の陸軍第一師団歩兵三連隊に仮入営して三カ月の訓練を受け、翌1920(大正9)年3月に朝鮮羅南(現在の朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道清津市)の歩兵第七十三連隊に配属されるのであった。
 この軍隊経験が、のちに『のらくろ』のアイデアに活かされることになるのだが、この時分の仲太郎には、そのような未来を知る由はない。ようやく画家としての修業を始めた矢先に入営することになり、暗澹たる気持ちになったと想像するに難くない。

 仲太郎が羅南にいる頃、満州国間島省(現在の中国吉林省)で日本の領事館が馬賊に襲撃される事件が起きた。間島省へ警備に向かう途中、仲太郎は戦闘行動に巻き込まれた現地人を保護したところ、これが「人命救助」にあたるということになり、満期除隊後に勲八等瑞宝章を受けることになる。

 1921(大正10)年12月、2年間の兵役を勤め上げて満期除隊となった仲太郎は、東京に戻った。しかし、このとき遠治は結核を患い、療養のために大磯へと転居していた。そこで、遠治とはまた別の従兄(父の兄の子)が五反田でメリヤス工場を営んでいたので、その社員寮に間借りすることになる。

日本美術学校と杉浦非水

 年が明けて1922(大正11)年、仲太郎は日本美術学校が新入生を募集していることを知り、その図案科に入学するのであった。図案科というのはグラフィック・デザインやポスター、イラストなど、商業デザインを学ぶ学科である。
 日本美術学校は、日本美術専門学校(2018年3月に廃校)の前身にあたる。1918(大正7)年に設立されたばかりの私立の学校で、校舎は豊多摩郡戸塚町(現在の新宿区西早稲田)にあった。同時代人としては、仲太郎の前年に井伏鱒二が日本美術学校の別格科に入学している。
 ただ、井伏は仲太郎の入学した年の5月には日本美術学校と早稲田大学を同時に退学するので、おそらく仲太郎との接点はなかったであろう。この翌年、井伏は同人誌「世紀」の創刊に参加し、小説『幽閉』(のち『山椒魚』に改題)を発表する。

 仲太郎が入学した図案科では、杉浦非水の指導を受けた。杉浦非水は日本におけるモダンなグラフィックデザインの草分け的な存在である。
 もともとは中央新聞社に勤め、同社が1906(明治39)年にはじめた週刊の別冊付録「ホーム」に『鬼退治の太郎』などの漫画を掲載したこともある。その後、三越呉服店のポスターやPR誌の表紙などのデザインを一手に担い、看板デザイナーとなった。
 杉浦非水が日本美術学校の講師となったのは1921(大正10)年のことで、仲太郎が入学した1922(大正11)年には途中でヨーロッパへと留学するので、そのわずかな期間に仲太郎は非水の指導を受けたことになる。のち田河は、自身の単行本が刊行される際には、みずから装丁を手掛けるが、そこで高いデザイン性を発揮するのは、この図案科での学びが活かされたものと思われる。行く先々で一流の人材と出会うめぐりあわせの良さを感じずにはいられない。

前衛美術団体「MAVO」と竹久夢二

 それまでの仲太郎の美術的なバックボーンといえば、遠治から手ほどきを受けた油絵であった。あるいは、複製浮世絵頒布会で日常的に触れた浮世絵であったり、藤助伯父の趣味だった南画の影響もあったかもしれない。いわばファインアートが基本にあった。しかし、美術学校で体系的に美術を学び、その当時のモードに触れた仲太郎は、前衛芸術に傾倒していく。シュールレアリズムやダダイズム、表現主義といった新興芸術である。

 そして仲太郎は、前衛美術団体「MAVO」に身を投じる。同人誌を刊行したり、展覧会で作品を発表したりするなかで、絵やオブジェを創作するだけではなく、たとえばパンツ一枚になって舞台の上で逆立ちになるなど、さまざまな形式での表現活動を行った。この頃から仲太郎は「高見澤路直」の筆名を用いるようになる。

「MAVO」での活動がよほど肌にあったのか、この頃の仲太郎はルパシカを着て、髪型は長髪に伸ばしていた。ルパシカとは元はロシアの民族衣装で、プルオーバータイプの上着である。日本では芸術家に愛用され、仲太郎も好んで着用した。
 口さがない言い方をするなら、いっぱしの芸術家気取りであった。仲太郎は流行に対する感度が鋭いところがある。立川文庫もルパシカも、流行っていればすぐに取り入れる。「はやりもの好き」と言ってしまうと軽薄な印象を抱くかもしれないが、新しいもの好き、初物好きは江戸っ子の性分だ。

 1923(大正12)年の夏、仲太郎は避暑のため、伯母を連れて大磯の遠治宅を訪れていた。ちょうどそのとき、関東大震災(9月1日)に遭遇してしまう。仲太郎は五反田の親戚の様子を見に行くために、夜を徹して大磯から東京まで歩いた。その途中、品川警察署に立ち寄ったところ、「その格好では無政府主義者に間違われて自警団に襲われる可能性がある」と諭され、警察署に一晩泊められた。わずか2年前までは、坊主頭で軍服に身を包んでいた陸軍兵士が、「無政府主義者に間違われる」風体になっていたのである。

 あるとき仲太郎ら「MAVO」の面々は、渋谷の街頭にゴザを敷き、海外の名画の複製や美術雑誌の口絵の切り抜きなどを売って小遣い稼ぎをしようと企んだ。このとき、当時渋谷に住んでいた竹久夢二が偶然通りがかり、何点かを購入してくれたという。すでに美人画で名を成していた夢二が、貧乏学生の売るものが欲しかったとは到底思えない。若い芸術家の卵たちを応援する気持ちであったのだろう。
 夢二の行為に感激した仲太郎たちは、夢二宅までついていき、お礼として玄関口で「宵待草」を合唱した。「宵待草」は大ヒットした流行歌であり、その作詞者は竹久夢二である。夢二はきまりが悪かったようで、やむなく「MAVO」の面々を自宅に上げて一杯ご馳走する羽目になった。

 のちに田河水泡の内弟子になり起居を共にした滝田ゆうは、師匠・田河との思い出を次のように語っている。

滝田 夜おそく、酔っぱらって帰ってくるでしょう。ところが、奥さんはさっさと寝ちゃうでしょう。だから、ぼくがつかまってね、「きみねえ……」っていうのが、ウダウダと酔っぱらい特有の話がえんえんとつづくんですよ。ぼくに、お酒の燗してこいっていうんで、燗してくるでしょう。ぼくは話を聞いているだけなんだけど、以外とヤワラカイ話はしないんですよね。話っていうのは、エンドレステープみたいにいうだけで。そのうちぼくのほうも台所へ行って、ハカマにトクトク入れて、グイグイ飲んでね、先生が、「もう寝ようか」っていうと、「まあ、いいじゃないですか」なんて……エッヘヘ……。

『のらくろ50年記念アルバム ぼくののらくろ』(講談社)

 まるで古典落語の「親子酒」のような師弟のやり取りだ。内弟子をとって行儀見習いをさせるというのも、落語家の前座修業を想起させる。「宵待草」を歌いに竹久夢二宅に押しかけるあたりも小噺のようで、落語に出てくるような人物像が見て取れる。

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