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漫画と落語:田河水泡『のらくろ』 9

漫画家・田河水泡の誕生

 新作落語の連載が1年ほど続いた頃、仲太郎は「面白倶楽部」の中島民千編集長から、ある提案を持ちかけられた。

あなたはもともと絵描きさんだそうじゃないですか。絵が描けて、落語のような滑稽なストーリーが作れるのだから、連載漫画を描きなさいよ。うちの雑誌にのせるから

『私の履歴書 芸術家の独創』(日経ビジネス人文庫)

 美術学校出身という経歴を知った中島編集長が、それならばと勧めてきたのである。漫画を描くとは思いもしなかった仲太郎は、はじめは渋ったものの、中島編集長に勧められるままに挿絵を描き、次第に漫画を描くようになっていった。
 
 落語作家としてのペンネーム「高澤路亭」は編集部につけられてしまったが、漫画家としてのペンネームは仲太郎自身が考えた。
 「田川水泡」である。
 これは本名の「高見澤」に由来する。「TAKA・MI・ZAWA」とアルファベット表記したときに、「TA・KA・MIZ・AWA」と区切り位置を変え、そこに「田」「川」「水」「泡」と同音異語を宛てたのだ。
 のちに「田川」は「田河」に改めることになるが、もともとは「田川水泡」と書いて「た・か・み・ざわ」と読ませるつもりだった。事実、『のらくろ二等卒』第1話の雑誌掲載時(「少年倶楽部」昭和6年新年号)には「田河水泡」の筆名に振られたルビは「たかみざわ」であった。「すいほう」とは書かれておらず、これが元来は正解だったようだ。
 しかし、「たがはすいほう」のルビを振られることが圧倒的に多く、結局、本人もあきらめて「田河水泡(たがわすいほう)」に落ち着くことになる。
 高見澤仲太郎、28歳。
 漫画家「田河水泡」としての第一歩を踏み出した。

遠治の死

 同じ頃、敬愛する従兄・高見澤遠治との別れが待っていた。かねて結核を患っていた遠治は、関東大震災のあと、2年ほど関西に活動の場を移していたが、結核が悪化して鎌倉へ戻ると、湘南サナトリウムに入院していた。
 だが、闘病の甲斐なく、1927(昭和2)年6月11日、遠治は帰らぬ人となった。享年は36歳であった。
 遠治の通夜には、晩年に親交の深かった岸田劉生が門下一同を引き連れて参列した。酒の入った劉生は、三味線で賛美歌を歌うなど、かなり無礼講な席であったようだ。このときに田河はオランダダンスを踊ったとの記録が残るが、それがどのようなダンスなのかは不明である。
 この「囃されたら踊れ」の精神が田河水泡にはあるように思う。

初めての連載作品、その裏で

 漫画家・田河水泡にとって、はじめての連載作品は、雑誌「少年倶楽部」の1929(昭和3)年2月号〜12月号に掲載された『目玉のチビちゃん』である。田河が「少年倶楽部」に連載作を持つようになった背景には、ひとりの名物編集者がいた。
 それが加藤謙一である。藤子不二雄A『まんが道』の愛読者であれば、作中に登場する「漫画少年」(学童社)の編集長として覚えているだろう。のちに加藤が創刊する「漫画少年」は、まだ関西在住時代の手塚治虫を起用して『ジャングル大帝』を世に送り出し、トキワ荘組の面々を輩出し、戦後日本の娯楽産業を語るうえでは欠かせない雑誌となるのだが、1927(昭和2)年の時点では、まだ加藤は大日本雄辯会講談社に在籍し、「少年倶楽部」の編集長を務めていた。

 加藤が「少年倶楽部」の編集長に就任したのは、1921(大正10)年のことである。このとき加藤はまだ25歳。だが、その前途は決して明るいものではなかった。加藤が編集長に就任した当時の「少年倶楽部」の部数は2万8千部で、同社発行の他誌と比べると、寂しい数字であった。
 また、1925(大正14)年2月には、「少年倶楽部」に挿絵を描いていた人気挿絵画家・高畠華宵かしょうと画料が折り合わず、高畠はライバル誌「日本少年」(実業之日本社)へと流出してしまう。

 誌面の刷新を余儀なくされた加藤は、新しい作家を積極的に起用していく。そのひとりが吉川英治であった。「キング」で『剣難女難』を連載していた吉川は、この年の「少年倶楽部」5月号から『神州天馬侠』の連載を始める。さらに加藤は、同郷の作家・佐藤紅緑に白羽の矢を立てた。
 佐藤紅緑は本名を洽六といったが、日本新聞社の記者時代に正岡子規から俳句の手ほどきを受け、子規から「紅緑」の雅号を与えられていた。「佐藤紅緑」の名は、正岡子規が名付け親なのである。
 日本新聞社を退社後、佐藤紅緑の筆名で小説を書き、すでに大衆小説の人気作家になっていたが、少年小説を書いた経験はなかった。
 しかし、加藤の説得に応じ、1927(昭和2)年の「少年倶楽部」5月号から『あゝ玉杯に花うけて』を書く。この作品が好評を博し、佐藤紅緑は「少年小説の第一人者」とも称されるようになるのであった。それからおよそ40年後、梶原一騎は講談社の編集者・内田勝に「マガジンの‘佐藤紅緑’になってほしいんです」(新潮文庫『梶原一騎伝』斎藤貴男)と懇願され、劇画原作者となる。ある世代の人にとって、「少年誌の佐藤紅緑」とは、それほどネームバリューのある存在だったのである。
 ちなみに、『リンゴの唄』や『悲しくてやりきれない』などの作詞を手がけたサトウハチローや、旭日小綬章を授章した作家・佐藤愛子は、佐藤紅緑の実子である。

 『あゝ玉杯に花うけて』のヒットで「少年倶楽部」が発行部数を伸ばしていた頃、加藤はさらなる飛躍のため、佐藤紅緑に助言を求めた。
 すると佐藤は「『少年倶楽部』には漫画が少ないようだが、いい漫画をたくさん入れるんだね。雑誌全体が明るくなるし、家じゅうの人がたのしめるからね」とアドバイスした。
 そこで加藤が目につけたのが、漫画家として活動を始めたばかりの田河水泡であった。加藤は「少年倶楽部」に田河水泡を抜擢し、はじめての連載作品を持たせるのであった。

 なお、田河に漫画を描くよう勧めた「面白倶楽部」の中島民千編集長は、1929(昭和4)年に吉川英治が連載作品(『恋ぐるま』など)の執筆を拒否する事件が起き、そのあおりをうけて大日本雄辯会講談社を辞して大陸へ渡った、とされている。わずか2年ほど違っていれば、田河を見出す人と出会わなかった可能性があることを思えば、人の縁の不思議さを感じずにはいられない。

「少年倶楽部」補足

 加藤謙一が「少年倶楽部」の編集長を務めたのは、1921(大正10)年から1932(昭和7)年までの12年間。その間の「少年倶楽部」の年間最大発行部数は次のとおりだ。なお、いずれの年も、付録の多い新年号が年間の最大発行号である。
  ・1921(大正10)年:6万部
  ・1922(大正11)年:8万部
  ・1923(大正12)年:12万部
  ・1924(大正13)年:30万部
  ・1925(大正14)年:20万部
  ・1926(大正15)年:25万部
  ・1927(昭和2)年:30万部
  ・1928(昭和3)年:45万部
  ・1929(昭和4)年:50万部
  ・1930(昭和5)年:63万部
  ・1931(昭和6)年:67万部
  ・1932(昭和7)年:65万部
 田河の『目玉のチビちゃん』の連載開始は1928年2月号からで、『のらくろ二等卒』の連載開始は1931年1月号から。ちょうど雑誌がのぼり調子のときに起用されたわけであり、タイミングにも恵まれたといえる。

 なお、加藤謙一は、1932(昭和7)年に「少年倶楽部」編集長を退いたあと、終戦の年には同社の取締役になっていた。終戦時には大日本雄辯会講談社を辞めていたが、GHQから「戦争協力雑誌」の関係者と認定され、公職追放処分を受けてしまう。こうした経緯があり、のちに彼が学童社を起こして「漫画少年」を創刊する際には、同社の社長は加藤の妻が務めることになるのであった。

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