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ケース『ある介護主任が退職する理由』 

 特別養護老人ホーム長寿園は、利用者9〜10名の3ユニットからなる定員29名の地域密着型特別養護老人ホームである。そこで介護主任を務める山田香織(やまだ・かおり/40才女性)は、ある夜、退職願を書いていた。

 長寿園内の3つのユニットには、各6〜8人の介護職員が配置され、それぞれにユニットリーダーがいる。全体では21人の介護職員がおり、山田は介護主任として総勢30名近い現場スタッフである介護職員をまとめる立場にいる。長寿園の組織図は以下のとおり。


長寿園の組織図

 主任とはいえ、勤務のうち70%は現場に入っており、一般の介護職員と同じ業務を行いながら、月に2回は夜勤もこなしている。主任としての業務は、3ユニット分の勤務表作成、介護職員の年間研修や行事・イベントの企画・運営、入所時のケアマネジャー・介護職員間の情報共有や連絡調整、日々の介護記録のチェック、身体拘束廃止委員会や虐待防止委員会等への出席、利用者事故への対応などがあり、ユニットリーダーの相談に乗ることも多い。主任業務に充てられる時間は月に6日程度しかなく、どうしても、夜遅くまでの残業になる。

 こうした業務の中でも、特に負担に関しているのは勤務表作成である。現場からあがってくる希望休や有給休暇への対応、イベント時のイレギュラーな人員配置の説明と実現、夜勤者同士の相性まで考慮した組み替え、公休日の間隔調整など、悩むべきことは多い。また子育て中の職員が急に休むと、山田自身もヘルプで現場に入り、その火の仕事が後回しになってしまうこともある。利用者が亡くなり、葬儀に出席することもある。一方で、残業の多さについて事務長から注意されることも、大きなストレスになっている。

 先日は、看護職員と介護職員の意見の対立にはさまれ、出口のない、議論のための議論のようなことで、数時間もの時間をかけてしまった。そうした日常をなんとかこなしているにも関わらず、現場の職員たちからは「主任はし座って仕事ができて楽だよね」と陰口を言われていることも耳に入ってくる。

「私はなんのためにこの仕事をしているのだろう?」
「主任の役割って何?」
「現場にいた頃は楽しかったな」

 そんなある日、施設長の高橋拓司(たかはし・たくじ/55才男性)から「山田さん、最近表情が暗いけど大丈夫?話聞くよ」と食事に誘われた。施設長は、山田が長寿園に就職する前からの知り合いで、仕事に悩んでいた山田を長寿園に誘ってくれた恩人でもある。

 施設長から自分の元気がないように見られていたのかという恥ずかしい気持ち、施設長から気をかけてもらえている嬉しい気持ち、そしてその日は緊急対応がなければよいなというプロとしての思い、そんな複雑な思いはあったが、最近、誰とも会食ができていなかった山田は、少しワクワクしながら、スケジューラーに食事の予定を入力した。

 食事会の会場となったのは、地元では、なかなか予約が取れないことで有名な創作和食料理屋だっや。こうしたお店選びからも、施設長が自分のことを大切に思ってくれていることが分かる。乾杯からしばらくは、施設長は、山田の話を傾聴してくれた。山田は、ただ話を聞いてもらえるだけでも、気が楽になることを実感していた。しかし、少し酔いがまわったころからは、施設長は、最近読んだビジネス書のことや、難しいフレームワークのことなどを話しはじめた。山田は、施設長が相変わらず勉強をしていることに感心し、仕事熱心な施設長への尊敬を深めるのと同時に、自分の未熟さを思い知り、自信を失っていく気がした。

 帰り際、施設長は今後のビジョンについて話し始めた。これからはIT化の時代だから、長寿園にもどんどんテクノロジーを導入し、仕事の効率化を進めていくのだという。施設長は先ほどのフレームワークの話を持ち出しながら「山田さんには、現場でのIT推進の仕事を任せたい」といった。また「山田さんには、経営陣からも、将来の長寿園の幹部として期待が集まっている」とも伝えられた。「高卒の私には、ITなど分からない」と切り返してみたが、施設長は「大丈夫、わからないところは、みんなで支援するから」という。

 「期待されるのは嬉しいけど、私は、長寿園の幹部になりたいのだろうか・・・」
「そもそも支援されるべきところは慣れないIT推進の仕事なのだろうか・・・」
「私がやるべきなのはITなのだろうか・・・」

 家に帰ると、すでに夫と子どもたちは寝室で眠っていた。山田は、夫と小学生・中学生の子どもがいる4人家庭で共働き。夫も残業が多く、山田自身もこの頃残業が増えてきた。家族で夕食を取る日も少なくなり、仕事のストレスが元で、つい子どもにあたってしまうこともある。今の自分の状態は、自分の思い描いた家族との暮らしとはとても言えない。

 山田は起きてきたネコ(かなちゃん/6才)にねだられるまま、ネコ缶を1つ開けた。美味しそうに餌を食べるネコを見ながら、山田は、このネコの元の飼い主だった、今は亡き利用者のことを思い出していた。その利用者はなかなかに手強い人で、多くの介護職員が根を上げた利用者でもあった。しかし何故か山田との相性はよく、山田が担当してからは、穏やかに生きることができた。

 膝の上で寝始めたネコを撫でていると、LINEに、現場の職員から連絡が入った。明日の夜勤が入っているが、ノロウイルスにやられたようで、明日の夜勤は難しいという話だった。せっかく寝始めたネコを膝から下ろし、山田は、慌ててノートパソコンを立ち上げ、勤務表を開いた。そこに再び、膝に乗ろうとしてきたネコを、少し強めに叩いてしまった。その時、何故か、山田には、あの利用者の笑顔がはっきりと思い出された。

 勤務表と利用者の、どちらが私にとって重要なのだろう。私は、長寿園の幹部になりたいのではなく、利用者に寄り添っていたい。ITではなく、人間と向き合いたい。

「私は、座ってやる仕事はしたくない」

山田は、勤務表ごとノートパソコンを閉じて、ネコを呼び寄せた。

問い

1.あなたが施設長なら、山田の退職願にどう対応しますか?

2.あなたが事務長なら、山田の退職願にどう対応しますか?


(注意)本ケース自体はもちろん、登場する団体名や個人名は全てフィクションです。本ケースの著作権は、介護経営の具体的な課題を皆で解決する非営利コミュニティCare Designers Labにあります。ただし本ケースは、介護業界の発展のために利用する場合に限り、Carw Designers Labへの権利許諾等の連絡や支払いは不要で、自由に複製・共有し使っていただいて問題ありません。勉強会や研修などでご利用いただけたら光栄です。共に介護業界の発展に向かい、頑張っていきましょう。

執筆者:酒井穣、大平怜也

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介護サービスの会社を経営しながら、経営学を学ぶため大学院に通っています。起業前の13年間は特養で働いていました。介護現場と経営と経営学、時々雑感を書いています。記事は無料ですがサポートは大歓迎です(^^)/