谷崎潤一郎全集を読む 第四巻

谷崎潤一郎全集第四巻(1981年版)を読む。1916~1917年に執筆され当時の年齢は30~31歳。

恐怖時代

江戸時代の深川あたりの下屋敷が舞台の戯曲であり、太守お気に入りの眉目秀麗な愛妾、お銀の方とその手下らが、主人太守の奥方を毒殺しようと目論むという筋立てである。お銀の手下には、靱負と梅野と伊織之介と珍斎らがいる。靱負はお銀の方と、梅野は伊織之介と相思相愛に思っていたが、実際相思相愛だったのはお銀の方と伊織之介であり、二人はその恋仲を隠していた。太守への、お銀の一派としての裏切りと、靱負と梅野への、お銀と伊織之介の裏切りという、二重の裏切りがこの物語の構成になっている。こうした「裏切り」という設定は、谷崎作品の重要テーマといってよく、「恋を知る頃」「饒太郎」「お艶殺し」に代表され、中期の代表作「卍」では高度な欺きあいに発展している。登場人物のカラーに注目すると、伊織之介は18,9才の女性的な言葉遣いと慇懃な態度が特徴的な美少年で、かつ武術に勝れる。珍斎は中年男、幇間的なのんきさと異常なほど臆病な性質を持っている。どちらも谷崎が好んで描き、最も得意とするキャラクターだろう。後半の酔った太守の暴君ぐあい「タイラニカル」な様子は毒々しく、切り合いの場面は俗悪なほどだが、それも谷崎の狙い通りか。お銀や梅野は、これぞ毒婦、というキャラクターで、死ぬ場面はもはや清々しいレベルに達している。谷崎の得意とするような内容を余すところなく注ぎ込んだような、谷崎の良さが詰まった戯曲だった。舞台化、映画化も過去にされているようなので見てみたいと思う。

亡友

「品性の純潔な気象の高邁な人間」である旧友の大隈君は、異常な性欲のために短命ながら夭折してしまった。語り手は本文中で珍しく谷崎と明言されている。冒頭部にあるとおり「女と云う者が男子に対してどれ程恐ろしい力を振ふか」がこの小説のテーマであり、「私は到底其の力に向かつて、反抗しようなどと云う勇気は起らない。寧ろ大人しく其の愛撫に服して、安らけく楽しく生きていきたいと願ふばかりである。」とまとめている。大隈君にはモデルがいた(大貫晶川というらしい)ようで、作品にはさながらノンフィクションのようなrealityが備わっている。けれども、当然だが、谷崎がフィクション作家の大家であることを考えると、筋書きを実際の出来事とは捉えないほうが良いだろう。大隅君は、どちらかというと「鬼の顔」「神童」の谷崎の幼年期、「偉大な哲学家や宗教家に憧れていた幼少期」が投影されていると感じた。「懺悔話」のような、谷崎自身の体験のように語りつつも、フィクションを織り交ぜた作品。また、本文中に伏字が多く、意図的なものかそうでないのかは不明だが、想像力が書きたてられた。

美男

語り手はまた谷崎自身である。美男のKについての話なのだが、目の冴えるような美男ではなく、愛嬌があり巧みな話術を持っていて人たらしのような男である。Kの妻子持ちにもかかわらず放蕩し、金の工面を他人にしてもらう様はさながら太宰治の斜陽の上原のようである。Kは現代でいうところのブス専門で、三流芸者や料理屋の素人を口説く様子は「色男の濫費」と表現されている。最後は、貢がせていた女に執拗に追い回され顔に濃硫酸をかけられそうになるも和解して終わる。「美男でも三流で満足していたらろくな人生を歩めない」といったところか。ところで、花柳界は少なくとも明治大正時代は繁栄していたが現代では見る影もない。花柳界は消え、今はどこがその役割を担っているのだろうか。小説からのイメージにすぎないが、芸者買いは、現在の風俗のように「冴えない男たち」がするものではなく、むしろ若さとお金と美貌を持つ男たちの遊びであるような印象を受ける。ただ、明治大正期の小説に花柳界が頻繁に登場するのは、自由恋愛を描くうえで当時可能だった場所がそうした場所しかなかった故の必然であるのだろう。

病辱の幻想

男は虫歯に悩まされ床に臥しながら、大地震が来るのではないかという幻想に取りつかれる。その神経質さ、臆病さは「鉄道病」で鉄道に怯える話に似ている。虫歯の痛みと地震への恐怖心は擬音を交え細かく書かれており、目に浮かぶような現実感に富んでいる。地震、地震と言えば谷崎は関東大震災以降、関西に拠点を変え作風をも変化させていき、地震により作家人生に多大な影響を受けているが、安政の大地震を振り返り今夜大地震が起こるのではないかと夢うつつに怯える場面での「今夜の大地震が彼の一生の運試しなのだ。泣いても笑っても、彼の天命は其の時定まるのだ。彼が短命な横死を遂げるか、幸運な長寿を保つか、仰るか反るかの大事件が、一に其の際の彼の挙措に懸かって居るのだ。」この一文が谷崎の人生を不思議にも暗示している。関東大震災後、谷崎はあらかじめ計画していたかのように家族を連れ東京から兵庫に引っ越し数々の名作を産み出した。震災で亡くなっていたら、今の文学史上稀にみる谷崎文学への賛辞は無かっただろう。

人魚の嘆き

清朝の南京に住む貴公子は、早逝した高貴な家柄の両親のために莫大な財産を持ち、さらには中国一と思われるほどの美貌を備えていた。貴公子は、ありとあらゆる歓楽をし尽くし空虚な気持ちで阿片を吸っていた。ある日、欧羅巴風の男(のちにオランダ人と分かる)が人魚を売りに来る。ガラス張りの水甕に入れられた人魚を見た貴公子は「私が阿片に酔って居る時、いつも目の前へ織り出される幻覚の世界にさへも、此の幽婉な人魚に優る怪物は住んでいない」と云いそれでも無限の賞賛と驚愕とを表しきれなかったほどだった。オランダ人は「此の人魚には、欧羅巴人の理想とする凡べての崇高と、凡べての端麗とが具現化されている」と絶賛する一方で、オランダでは人魚に似た、白い肌、美貌は劣るものの具有しているのだと云った。貴公子は人魚を買ったが「水の中に喘ぐ人魚と、水の外に悶える人間」の間には超えることのできない壁があった。貴公子は人魚の懇願に応じて、欧羅巴行きの船に乗り、地中海当たり(人魚の生息地だという)に人魚を返した。

「この世には実在することのない美(=人魚=フィクション)」を言葉で表そうとした作品であろう。文体は「幇間」「金色の死」以来の敬体を用いており、今までにないほど四字熟語や中国趣味な言葉を用いており、豪華絢爛と称するにふさわしい。また「フィクションと現実」というテーマのほかに「東洋と西洋」という対立構造も描かれている。「オランダの人魚」と「東洋の珍宝」は等価に交換され、オランダ商人は西洋では人魚を買おうとする人はおらず「東洋の珍宝」のほうが珍しがられるためそれをまた西洋で売るのだという。文化が違えば価値観も異なるのである。人魚をオランダの言い伝えがオリジナルの設定にしたところが、谷崎の西洋崇拝を感じたが、人魚と貴公子の関係はあくまでも「ガラスの境界一枚を隔て」「一人は水の外に出られぬ運命を嘆き、一人は水の中に這い入られぬ不自由を怨んで」いるものでたがいに交わることは出来なく、「西洋と東洋は交じり合えない」、「フィクションは現実にはなりえない」のだろうと感じた。

魔術師

男は恋人に誘われ怪しげににぎわう公園に入り、美貌の謎めいた魔術師の呪術を見に行くことになってしまう。恋人は、男と心と体でつながっていることを試そうとするが、男は男性美と女性美を兼ね備え、西洋と東洋を超越したような容貌を持つ魔術師の美しさに心を奪われてしまった。魔術師の劇を見に来る人々もまた、「美と不思議の魅力」に取りつかれていたのであった。男は、魔術師の奴隷として「半羊神」となり踊り狂うことを願い、変化させられる。恋人は、失望しそれでもなお男を求め「半羊神」に変えられてしまう。

美しい人に征服され動物に変化させられるというどこか寓話的なストーリー構成は、数々の神話や泉鏡花の「龍潭談」「高野聖」でも扱われている。物語のテーマとして、魔術師の「美」と恋人の「恋」が対立しているが、ここでは「美>恋」という構造が表れている。

既婚者と離婚者

円満に離婚するために、三年をかけ妻に表面的にすぎない西洋的な自立した精神を植え込む「教育」を施し、離婚を果たしたという話。離婚の苦痛を避けようと愛情なしにグズグズと結婚生活をおくることは「一生の破滅」であるようだ。

鶯姫

女学校の国語教師である老人は未来に希望はなく過去、それも平安時代に強いあこがれを抱いていた。ある日現れた青鬼により、平安時代にタイムスリップする。老人は、赤鬼になり壬生忠岑の娘である鶯姫(女学校の壬生野春子の祖先)をさらう。しかし謀略は失敗し、目が覚めた老人は、春子から嫌われてしまう。ゲーテの「ファウスト」では、教授の老人が悪魔メフィストにそそのかされるが、話の構造が似ている。だが、話の構想に対して展開がはやく物足りなさを感じた。

或る男の半日

妻と二人の子供を養いさらに女中一人を雇う分のお金を稼がなければならない文士、間宮は贅沢が好きで、人に流されやすく、見栄っ張りの男だった。間宮の背景設定は、谷崎本人のようで、結婚生活にうんざりしている日常が読み取れる。この時期の作品には「結婚生活」をテーマにするものが目立つ。

玄奘三蔵

西暦635年の印度に、シナから旅をする僧があった。玄奘三蔵法師である。ヒンドゥー教が流行る世界で、仏教徒の三蔵法師は異国のそれを懐疑している。文中で「リグ・ヴェーダ」や「ラーマーヤナ」が引用され、印度趣味が前面に出た作品で、1917年には「玄奘三蔵」「ハッカン・サンの妖術」「ラホールより」という三作品を書いている。「獨探」で「若し日本人としてエキゾティックな芸術を開拓するつもりなら、支那や印度に眼をつけた方がいいなどと思って居た」という発言の通り、印度を舞台にした作品であるが、あくまでも西洋オリエンタリズムに立脚したものらしい。

詩人のわかれ

久しぶりに再会した三人の飲み仲間は、江戸っ子の文士で田舎生まれの芸術化には見られない、機鋒の鋭い弁舌と、応用の利く才智と、洗練された官能の趣味を誇りとする遊び上手たち。飲み続けた三人は、夜半に田舎詩人Fの家へたどり着く。物語前半は、谷崎と友人の実際にあったやり取りらしいが、F(モデルは北原白秋)が登場してから最後の場面は、印度の神ヴィシュヌが登場するという不思議な構成になっている。

異端者の悲しみ

王侯に等しい豪奢な生活を営みえる身分になれたら、此の世は遥かに天国や夢幻の境より楽しく美しく感じられるに違ひない。今逆境に沈んで居る彼が、そんな身分に転じようとするのは、まるで妄想に等しい僥倖を願ふ者かもしれないが、それでも天国や華胥の国に生まれ変らうとするよりはずつと可能なことである。

人間と人間との間に成り立つ関係のうち唯一重要なのは恋愛だけであるが、精神ではなく美しい肉体を渇仰するので、恋人の為ではなく自己の歓楽のために献身的になるだろうと考える主人公章三郎だが、幇間的性質を持ち合わせていて決して人嫌いというわけではなかった。蛎殻町の貧乏な家庭に育ち、瀕死の銃後六歳の妹をもつ、大学生の章三郎は、友人の死をきっかけに死に対する恐怖に襲われ始めるが、願いはこの世の歓楽を味わいつつ生きながらえることだった。妹の死の二か月後章三郎は「甘美にして芳烈なる芸術」を文壇に発表する。自伝的作品である。十五六の娘の死に際が脱糞しながらというのは細雪につながるのだろうか。

晩春日記

文語で書かれたほぼ実際の日記なのではないかと感じる作品。久米正雄、正宗白鳥らが友人として登場したり、谷崎の長女である鮎子について言及し、自分が「子供嫌ひ」であるという心情を吐露している。

十五夜物語

二人の恋愛をつなぐものは魂だと信じていた浪人の友次郎と武家出身のお波。友次郎の母を助けるためにお波は吉原に身売りをする。三年の月日が経ち、お波は友次郎のもとへ帰ってくる。しかし、二人は恋愛をつなぐものは屍骸だったことを実感し、恋の浅はかさに気付く。昔の恋に戻れないと確信した二人は、自害し、生まれ変わろうとする。

ハッカン・サンの妖術

西洋自然科学と東洋的神秘主義をテーマにした作品。インド人のミスラ氏は、もとは妖術使いだったが、インド独立のために、西洋流に自分の精神を改変したと信じていた。西洋の超克を同じくテーマとしていた日本に留学し、「谷崎」と出会う。「谷崎」は、ミスラ氏に妖術をかけられて見た世界で、亡き母に善人になれと言われ、妖術の世界を事実であると認識する。

作中に詳しい魔術の解説があった。インド哲学・思想の世界観をリアルに小説に再現した谷崎潤一郎の力量に脱帽した。

ラホールより

愚行に拠れば、印度は唯り東洋文化の源泉たるに止まらず、現今に於いては、無数の生きたる神仙譚やお伽噺を蔵し、さながら小説的材料の寶窟たるかの観有之

ラホールとは、インド・パキスタンに存する南アジアのメガシティで、ムガル帝国の統治時代から、発展していたそうだ。この書簡体で書き連ねられる小説に拠れば、ラホールでは小説のような珍談奇聞が日常で繰り広げられているそうである。そうした数々のエピソードを小説家への手紙という形式で綴る。月報の河野多恵子によると、執筆時の谷崎はインドに行った経験は無く、したがってこの小説及び、「玄奘三蔵」、「ハッカン・サンの妖術」ら三作品は、彼の頭の中で発酵し書かれたものだそうだ。


2021.9.4 読了


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