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今日も誰かのアンサーソング。

noteに私好みのお題、
#自己紹介をゲームで語る に答えようとしたが、
やめた。またの機会にする。

わたしのゲーム語りなど
もう散々やってきたからだ。
いまさら何も言うまい。

気になる方はマガジン読んでね。
わたしの人生はゲームと音楽しか、ないから。
音楽の話は……まだしてないね。
藤井風さんの話で少ししたかな?
まあいつかやろう。

さて今日のタイトルの話。
アンサーソングとは、何か?

アンサーソングは、既に存在する歌に対する返答として作られた歌のこと。返歌。元となる歌とは別の歌手・アーティストによるものが多いが、自身で「続編」の意味でアンサーソングを作る例も見られる。 ヒップホップにおいては、既成の曲に対する批判的な返答やdisに対する返答としてアンサーソングが作られることが多い。 ウィキペディア

……だそうだ。ありがとう。Wikipedia。
つまり音楽を使った文通だよね。実際。
自分で自分に宛てる場合も、文通。

ブログでもそれはあるとおもう。
誰かの書いたnoteに返答する。
それがわたしのアンサーソング。

とはいえ、特定の誰かを想定しているわけではない。強いて言うなら……noteをパラパラと見た時に感じた空気?雰囲気?それらに対するアンサーソング。

わたしのnoteはそれが多かったりする。

わたしの中に、胸の奥に渦巻くモノを吐き出す際、
呼び水が必要となる。それは誰かのつぶやきであったり、誰かの吐露した心の欠片。それらを目の当たりにしてはじめて自分も重い腰を上げる。

ある程度他の人の前例があったうえで
私なりの言葉選びをしているのだから
それはもうアンサーソングといっていい。

わたしはあやふやな表現が多いと自覚している。
抽象的である。
具体的な表現を避けているのではない。
なるべくそのままを表すとこうなってしまう。

かねてからわたしはこのnoteの存在意義は
わたしの内面の記録であると明言してきた。
わたしの内面は混沌と化しており
常に仮説と検証で渦巻いている。

まずそこから解説せねばなるまい。
わたしはわたしの正解、答えを模索する癖がある。

世の中はこうだと言っている。
だがわたしはそうは思わない。
どうしたら納得できる答えにたどり着けるか?

どうすればいいか?
問いかけ続けるしか方法がない。
いったい誰に?私の中の私に、だ。

わたしは過去を振り返るに
答えを求めるがあまり抽象的な物言いになりがちである。それは日常的に哲学的思考をしているわたしは考えが纏まらず混沌としている頭を抱えながら生きている。すると、口を開いた途端に、自問自答の問のまさに先端が急に出てきたりする。その問いは途方もないもので、そもそも論で話し出すともう雲をつかむような話となる。抽象画のほうがまだ写実的だ。そこにあるという意味で実在するのだ。私の頭のなかの思考は実在しない。わたしがその先端を吐露したところでそれは前後の文脈を必要とする難題である。また、わたしはそれらの問題によって身動き取れなくなることすらある。事実、学生時代のわたしはわたしの考えの深い渦に巻き込まれ、足を取られ、あやうく帰って来れなくなるところであった。分かりやすくいえば自律神経をやられそうになったのである。今思えばよくよくその時期を乗り越えられたものだと思う。わたしは昔、夢遊病が酷かったらしい。夢の中のできごとと現実の世界がごっちゃになってよくタンスの引き出しを開け閉めしていた。何を探していたのか。それはわからないが、よく探していた。当の本人はよく覚えていないのだが、母に懐かしい話として聞かされたものだ。あと、相当の癇癪持ちだったらしい。らしいというのはご多分にもれず当の本人に自覚がない。何度か引き付けみたいなものを起こしてその度に母はわたしが誤って舌を噛んでしまうのではないかと心配した。ひどいときにはとっさに母は自分の腕をわたしの口に当てて腕を噛ませて発作がおさまるのを待ったのだという。当時の記憶があるわけではないが、わたしは極端に怖がりだったことは記憶している。それがストレスによるものなのか、想像力が豊かすぎるがゆえの感受性のなせる技かはいまだにわからないことなのであるが。

そんなわたしなので、とにかく自分はこのままでは生きていけないという不安があった。普通の人間になるためのトレーニング。それが私なりにあらゆる感性を受け入れること。わたしはそれをコモンセンスの獲得と呼んでいた。

それは私ではない誰かの感性を許容する修行である。他人のそれを受け取り反芻することで自らの感性とする。その行為を繰り返すことでわたしのなかの凝り固まったわたしらしさとは?という思考回路を強制的に薄める効果がある。
それが私という個を緩め、わたしとは?という哲学的思考の嵐からわたしを救うことになると信じていた。
結果としてそれは機能した。わたしはあらゆるわたしらしくないものを(そうであると認識しているものも含め)、わたしの感性として獲得していった。それはどうしたって完全に心の1部とすることなどできず、やっぱりというかやはりというか、逆説的に広義な意味でのわたしらしさを獲得することになった。もちろん拒否し続ける分野もある。

わたしは結局のところ、自分で自分を追い込んでいる。しかもわけのわからない思考によって、だ。
そのため私という個はとても難解なものとなり、
時折こうしてガス抜きをしないとまたわたしは
わたしの内面に飲み込まれてしまうようになった。
わたしは常に自律神経を崩しかねないという不安を抱えた、危うい心理状態を保持し続けているのである。

結論といこう。わたしはアンサーソングを書いている。それは私の内面に浮かび上がった問に対する答えだ。それは私に投げかけられた問に対する答えだ。それは私がつまづきかけた問題に対する答えだ。それらを前もって用意しておくことで保険をかけているのである。わたしは大丈夫。その問いに対する答えはもぅてにいれている。そういうことにしておくことで心の安寧を得るのだ。

今日も誰かのアンサーソング。

今日も私のアンサーソング。

MUSICAでした...♪*゚

わたしは脆い。
五月病にかかってしまったのかもしれない。
体が動かない。心がどうしようもなく怯えているのを感じる。毎年夏までわたしは走り続けてきた。しかし今年は去年の2倍、3倍の質の努力をしている。そのことがいつもより2,3ヶ月早くわたしの気力を奪ってしまったらしい。このコロナ禍である。我ながら無理もないと擁護してしまう。

明日が怖い。朝が怖い。
仕事着を着て寝ないと
本当の意味での安らぎは
手に入らないのか……。

ここも、検証がひつようだ。

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