奴が喋ると小母ちゃん笑う
彼は微動だにせずそこに立っていた。
それまで私は、彼に感謝していたのだが今は彼が私に対し、戦いを挑んできたのを切っ掛けに、彼に対してライバル心を抱いている。
今度こそ私は彼に一言も物を言わすことなく堂々と彼の前を横切ってやるのだ。
新型コロナウイルスが人類を戦慄させている昨今、メディアやネットで大騒ぎするほどの恐怖を私は感じていない、と言うのは、7年前に重度の糖尿病と診断され合併症で肝硬変寸前までになり一ヶ月の入院生活、退院後も毎月一度の定期健診を継続しているからだ。
糖尿病は徐々に私の体を蝕み慢性膵炎、腎臓病はレットゾーンぎりぎりまで追い込まれている。
「このままの進行状態では人工透析になる」と主治医に言われ、担当栄養士の指導の下、生活習慣の改善に取り組んできた。
熱中症になってはいけない、インフルエンザはもってのほか、腎臓を守りたかったらそれらの敵と戦っていかねばならない。目に見えない敵と毎日戦っている人間にとって新型コロナウイルスなど敵がひとつ増えただけ!戦いに備えることは何も変わらないということだ。
ただ、幸いにも健康な方々が対コロナを意識してくださったお陰でインフルエンザと言う敵が弱体したのは有難い。
そんな中、彼は一早く私の通うクリニックにやってきた。クリニックの待合室は狭い。患者は多い。順番を待つ全ての患者はマスクを着けて蜜を避けようと努力するも限界がある。その待合室に突然やってきたのが彼だ。
密になりつつある待合室の毎日献身的に働いている。しかもAI機能搭載で学習能力があり頭も良い。
現在、私の通うクリニックの患者の中には『新型コロナウイルス』の感染者はいない。糖尿病専門医のクリニックだけにその患者が殆どだ。糖尿病と言って連想されるように患者はふくよかな方が多い。言葉を変えよう。デブばっかりだ。
この日はとても混んでいた。二列あるソファーは蜜状態で患者が座っている。受付を済ませて尿の採取、次は採血、そして栄養士の指導だ、座る場所を失った小母ちゃんが立っていた。
看護師さんが簡易椅子を持ってきて、彼の前に置いたが、小母ちゃんは座らない。じっとこっちを見ている。
完全に私を、いや、私が栄養指導に呼ばれた際に開くスペースを狙っている。
「指導室へお入りください」呼ばれた!
私が腰を上げると同時に小母ちゃんがマスクの中でにやりと笑った。そんな気がした。
栄養指導が終わり部屋を出た。後は主治医の診察だけだ。もうすぐ帰れる。
無論待合室は満席だ。さっきまで私が座っていたソファーには案の定あのお方が座っていた。
仕方なく私は彼の前に置かれた簡易椅子へ腰を下ろした。