見出し画像

小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第9回【信長が光秀を抜擢したのはなぜか】

小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第9回【信長が光秀を抜擢したのはなぜか】

武士の身分としては上級でなかった光秀ですが、実力本位・能力主義を貫く「信長流人事」のもと、坂本城を与えられ「一国一城の主」となります。信長が光秀を第一の功労者と認めたのがあの比叡山延暦寺の焼き討ちだったといいます。今回は、近年発見された延暦寺攻めに関する新資料などをもとに、信長が光秀のどのような能力を評価していたのか、いくつかの観点から探っていきます。

要旨


(1)スピード出世した明智光秀

信長流人事:実力本位、能力主義を貫いた人事。今風に言えば、「中途入社組も、親の代々からの社員と同じくらいの地位にまで引き上げられた」ということ。

<織田信長家臣の城持ち> ※琵琶湖周辺

・木下秀吉:横山城
・丹羽長秀:佐和山城
・安土城:中川重政
・柴田勝家:長光寺城
・佐久間信盛:永原城
・森可成:宇佐山城→「志賀の陣」で討死→明智光秀が城主に

(2)「比叡山焼き討ち」での明智光秀の功績

織田信長は、比叡山の僧衆を呼び、「わが方に味方するなら、信長分国中の山門領(荘園等)を還付安堵しよう。それが無理なら、せめて中立を守って欲しい。味方もしない、中立も守らないということであれば、敵対行為とみなし、根本中堂、山王21社をはじめ、焼き払う」(浅井、朝倉軍に加担したら比叡山を焼き払う)と言ったが、無視されたので、焼き払った。

「九月十二日、叡山へ御取り懸く。子細は、去年、野田・福島御取り詰め侯て、既に落城に及ぶの刻、越前の朝倉、浅井備前、坂本ロヘ相働き侯。京都へ乱入侯ては、其の曲あるべからざるの由侯て、野田・福島御引払ひなされ、則ち逢坂を越え、越前衆に懸け向ふ。局笠山へ追ひ上げ、干殺なさるべき御存分、山門の衆徒召し出だされ、今度、信長公へ対して御忠節仕るに付きては、御分国申にこれある山門領、元の如く還附せらるべきの旨御金打なされ、其の上、御朱印をなし遣はされ、併せて、出家の道理にて、一途の最員なりがたきに於いては、見除仕り侯へと、事を分ちて仰せ聞かさる。若し、此の両条違背に付きては、根本中堂、三王廿一杜を初めとして、悉く焼き払はるべき趣、御諚侯へき。時刻到来の砌歟。山門・山下の僧衆、王城の鎮守なりと雖も、行躰行法、出家の作法にも拘らず、天下の嘲哢をも恥ず、天道の恐をも顧みず、婬乱、魚鳥を服用せしめ、金銀賄に耽りて、浅井・朝倉に贔負せしめ、恣に相働くの条、世に随ひ、時習に随ひ、まず、御遠慮を加へられ、御無事に属せられ、御無念ながら、御馬を納められ侯へき。御憤を散ぜらるべき為めに侯。」(『信長公記』)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/97

旧説:明智光秀は「延暦寺焼き討ち」を止めた(『天台座主記』)
   「光秀、縷々諫を上りて云う」
新説:雄琴の土豪(地侍)・和田秀純宛書状(「和田家文書」)
   「なでぎり」(撫で斬り)、「ひしころし」(干し殺し)
・「元亀2年(1571年)9月2日付「和源」(和田秀純))宛 明十兵光秀(明智十兵衛尉光秀)書状」(大津歴史博物館寄託『和田家文書』)は、比叡山焼き討ちの10日前に、比叡山の麓にある雄琴の土豪・和田秀純に宛てたもので、明智光秀は「仰木村は、(延暦寺に味方し、浅井&朝倉軍を匿っているので)「撫で斬り」(皆殺し)にしろ。これはすぐに出来るでしょう。また、たった今、朽木殿が山の反対側の西から進軍され、昨日、志村城を「干し殺し」(兵糧攻め)にして落としたという報告を受けました」と書いています。

御折紙拝閲せしめ候、当城(注:宇佐山城)へ入らるゝの由尤に候、誠に今度城内の働き、古今有間敷あるまじき儀に候、八木方ニあひ候て感涙を流し候、両人覚悟を以って大慶面目を施す迄に候、加勢の儀是れまた両人好き次第に入れ置くべく候、鉄炮の筒幷ならびに玉薬のこと、勿論入れ置くべく候、今度の様躰、皆々両人をうたか(疑)い候て、後巻なとも遅々の由候、是非なき次第に候、人質を出だし候上にて物、疑いを仕り候へば、報果次第に候、石監、恩上ハ罷り上り候時も、うたかいの事をハやめられ候への由、再三申し旧ふり候つる、案のごとく別儀なく候て、我等申し候通りあい候て、一入(ひとしお)満足し候、次で幼きものゝ事、各(おのおの)登城の次に同道候て上せらるべく候、其の間、八木は此の方に逗留たるべく候、弓矢八幡日本国大小神祇我々うたかい申すにあらす候、皆々くちくちに何歟と申し候間、其のくちを塞きたく候、是非とも両人へハ恩掌の地を遣わすべく候、望みの事きかれ候て越さるべく候、仰木の事は是非ともなてきりに仕りべく候、頓やがて本意たるべく候、又只今朽木左兵衛尉殿、向より越さら候、昨日、志村の城、ひしころしにさせられ候由に候、雨やミ次第、長光寺へ御越し候て惣、恐々謹言、
  九月二日        明十兵
                 光秀(花押)
     和源殿


旧説:比叡山延暦寺大殺戮

「九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂、三王廿一杜を初め奉り、霊仏・霊杜・僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞の如く焼き払ひ、灰嬬の地となすこそ哀れたれ。山下の男女老若、右往左往に癈忘致し、取る物も取り敢へず、悉く、かちはだしにて、八王寺山へ逃げ上り、杜内へ逃げ籠る。諸卒四方より鬨音を上げて攻め上る。僧俗・児童・智者・上人、一々に頸をきり、信長の御目に懸くる。是れは山頭に於いて、其の隠れなき高僧・貴僧・有智の僧と申し、其の外、美女・小童、其の員をも知らず召し捕へ召し列らぬる。御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ぱず、是れは御扶けなされ侯へと、声々に申し上げ侯と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなり。年来の御胸朦を散ぜられ訖んぬ。」(太田牛一『信長公記』)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/97

「元亀2年9月12日辛未。天晴。巳刻、小雨灌。織田彈正忠、従暁天、上坂下被破放火。次、日吉社不残、山上東塔、西塔、無童子不残放火。山衆、悉討死云々。大宮邊八王子両所持之、數度軍有之、悉討取、講堂以下諸堂放火、僧俗男女三、四千伐捨、堅田等放火、佛法破滅、不可説々々々、王法可有如何事哉、大講堂、中堂、谷々伽藍不残一宇放火云云。」(山科言継『言継卿記』元亀2年9月12日条)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919259/271

新説:発掘調査によれば、焼かれたのは山王社本殿があった鉢ヶ峰付近のみ
明智光秀は、放火の前に高僧を逃し、重要な経典も運ばせたので、延暦寺では今も明智光秀に感謝している。いずれにせよ、発掘調査で、『言継卿記』の記述は「伝聞」であり、史実ではないことが分かった。

「さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地侯ひしなり。」(『信長公記』)
*「比叡山焼き討ち」の論功行賞として、「城付き知行」。
*明智光秀:滋賀郡+坂本城=織田信長の家臣の「一国一城の主」第1号。
*第2号は羽柴秀吉(小谷城と北近江3郡)

「城中、天主の作事」(『兼見卿記』元亀3年2月22日条)
*「天主」は大坂城以後の「天守」(建築用語。「天守閣」は俗語)
*織田信長の安土城「天主」の試作品か?

*坂本城は連郭式(本丸、二の丸、三の丸)平城(琵琶湖畔)
「(明智光秀は)築城について造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」
(明智光秀は)大湖(注:琵琶湖)のほとりにある坂本と呼ばれた地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に築いたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」(ルイス・フロイス『日本史』)

*石垣あり。大津市の穴太(あのう)衆(石工集団)を使ったか?

ここから先は

328字

¥ 100

サポート(活動支援金)は、全額、よりよい記事を書くための取材費に使わせていただきます。ご支援よろしくお願いいたしますm(_ _)m