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2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』あらすじ&感想(第2回「道三の罠」)

■あらすじ

光秀(長谷川博己)に心を開いた望月東庵(堺 正章)と駒(門脇 麦)は、ともに美濃に向かうことになる。しかしその行く手には、美濃の侵略をもくろむ尾張の織田信秀(高橋克典)の大軍が迫っていた。多勢に無勢の中、籠城を決め込む斎藤道三(本木雅弘)。光秀と道三の嫡男・高政(伊藤英明)は反対するが、それは敵を欺く道三の作戦だった。

■トリセツ

斎藤道三軍×織田信秀軍加納口の戦い(井ノ口の戦い)
天文16年(1547年)、織田信秀が美濃へ侵攻。
織田軍が斎藤道三の本拠・稲葉山城(現在の岐阜城)のすぐ下まで攻め寄せたといわれています。

斎藤道三と美濃の守護・土岐氏との関係は?
美濃国は、本来は守護である土岐氏が治める国ですが、この時代は守護代・斎藤家の名跡を継いだ道三が勢力を拡大し、美濃の実権を握っています。

■大河紀行 岐阜県岐阜市

岐阜市のシンボルとして親しまれている金華山(きんかざん)。この山に、斎藤道三が拠点を置いた稲葉山城(現・岐阜城)があります。

鎌倉時代から軍事拠点としての役割を持っていたこの地。稲葉山城は道三が大改修を行い、難攻不落の名城となりました。山の麓には館が築かれ、道三の時代のものといわれる石垣が発見されています。

さらに道三は城下町を整備。かつては「井ノ口」と呼ばれた一帯には、道三が築いた惣構(そうがまえ)の土塁や、稲葉山城へつながる道など、当時の面影を見ることができます。

この地は尾張の織田信秀にたびたび攻め込まれ、戦いの舞台となりました。市内には犠牲になった織田軍を弔う塚が、ひっそりと残されています。

斎藤道三は、この稲葉山から勢力を伸ばしていくこととなるのです。


 天文16年(1547年)9月――加納(岐阜県岐阜市)に戻った明智光秀を待っていたのは、尾張国の織田信秀が美濃国へ攻め込んできての加納口の戦いでした。
 この織田信秀という人物――織田信長の父親なのですが、よく分かりません。尾張国の北に位置する美濃国(斎藤氏)が尾張国に攻め込んできたら、あるいは、尾張国の東に位置する三河国(今川氏)が尾張国に攻め込んできたら、当然、清洲城にいる尾張守護(斯波氏)か、守護代(清洲織田氏)が迎え撃つはずですが、なぜか織田信秀は、美濃国へ攻め込んだり、三河国へ攻め込んだりしています。(織田信秀は、津島や熱田の港で稼いでいて、天文12年には、禁裏御所修理の献金として1000貫(4000貫とも)もの大金を献上しており、尾張国内では、守護や守護代以上の権力者で、裕福だったようです。)
 実は加納口の戦いには、天文13年説と天文16年説があります。天文13年説では、越前国に亡命していた土岐頼純(母は朝倉貞景の三女)の「斎藤利政を美濃国から追い出して欲しい(討ち取って欲しい)」という要請で織田信秀が美濃国へ攻め込んでいます。そして、織田信秀が大敗すると、和議に持ち込み、斎藤利三の娘・帰蝶が土岐頼純に嫁ぎました。(政略結婚と言うか、帰蝶は人質ですね。)天文16年説では、加納口の戦いの2ヶ月後に土岐頼純が服毒死していますので、加納口の戦いの原因が土岐頼純にあるとバレての妻・帰蝶による毒殺でしょう。(帰蝶は刺客スパイだったようですね。)

★史料:土岐頼純の死については、斎藤父子2代国盗り説の根拠である「六角承禎条書」に「次郎殿を聟に取り、彼、早世候して」(土岐頼純を帰蝶の婿にしたが、早逝)、太田牛一『大かうさまくんきのうち』(『太閤様軍記』の内。『太閤様軍記』の抜粋)に「二郎殿をむこにとり、なだめ申し、どくがいをいたし、ころしたてまつり」とあります。

 さて、加納口の戦いでは、織田信秀の軍勢が2万人なのに対し、美濃衆は、その1/5の4千人でした。(織田信秀の子・織田信長が桶狭間で今川義元と戦った時は3千人。2万人って・・・お金で雇ったのかな?)ところが、織田信秀は負けると思っておらず、鼻歌(最近覚えたという風流踊りの唄「〽おもしろや この宿は 縦は十五里 横は七里…」)を歌っていました。(縦に長いうなぎの寝床のような宿場町ですね。)その自信の根源は、

――知彼、知己、百戦不殆。(『孫氏』)

でした。(明智光秀は、四書五経以外に『孫氏』などの兵法書も読んでいるようで、「彼を知り、己を知れば、百戦殆(あやう)からず」という名言を知っていました。)

斎藤利政「織田信秀の事は何でも知っておる。夫婦の閨の事までもな。金はあるが、さして人望はない。2万は金が欲しいか、お義理で集まった輩じゃ。脆いぞ。戦は数ではない。その事を思い知らせてやる。長井と稲葉を呼び戻せ!」

斎藤利政は、奇策を思いついたようで、『孫氏』の「敵を欺くにはまず味方から」の如く、重臣・長井秀元と稲葉良通を呼びに行かせ、明智光秀には秘策を教えず、「侍大将の首2つ」とノルマを与えて戦場に向かわせました。

 明智光秀は、「侍大将」とツイートしながら戦います。この時点の明智光秀にとって、「侍大将の首2つ取ってこい」は、「堺へ行って鉄砲を買ってこい」と同レベルの指令なのです。ところが、やる気満々の明智光秀の耳に届いたのは、
 ――退き鉦
でした。ところが、これは「道三の罠」であり、「今日の戦は終わった。明日は朝から攻めよう」と、織田軍の気を抜かせる作戦でした。さらに斎藤利政は芝居をしました。陣中で酒を振る舞ったのです。これはおかしい!
 酒を飲むなら陣中ではなく、城中です。目の前に稲葉山城があるのですから。それに、おつまみもない。私が乱波なら、「別れの水杯を飲んでいる模様。すぐに総攻撃を仕掛けてくるかと」と報告しますけどね。

斎藤利政「芝居はここまでじゃ。今、織田の軍勢は背を向けて、ノコノコ歩いておる。この機を逃していつ勝てる!  篭城はここまでじゃ。全軍を集めよ! 門を開け!」

 戦い再開です! 投石、火のついた俵・・・ネットでは「『風雲たけし城』『ホームアローン』みたい」と話題でしたが、『真田丸』の第一次上田合戦ですね。(父親が油売りだけに、熱い油をかけてもよろしかろう。)
 斎藤利政の家紋「二頭立波紋」は、「波こそ用兵の真髄なり。怒涛の如く打ち寄せ、寄せては引く。人生も波の如くありたい」という信念によるもので、兜の前立ては、潮の干満を引き起こす月がモチーフです。そして、鳴り響く陣太鼓の波動――。
 明智光秀は、侍大将を見つけ、彼の首を取ろうとすると、
 ――その侍大将の顔は叔父・明智光安そっくりだった。
叔父を殺す気分になった明智光秀は、気づきました。「侍大将の首」は「鉄砲」とは同レベルではない。侍大将は物ではなく、人間であり、敵である彼にも家族がいるであろうと。

明智光秀「その時、妙な事を思うていたのです。これが『武士の本懐(ほんかい)』かと、『武士の誉(ほまれ)』かと。こんなことが・・・しかし戦は戦だ。勝たなければ自分が討たれる。戦がある限り、勝つしかない。首を落とすのをためらう自分を愚かだと(言い聞かせるしか無い)」

駒「よいではありませんか。それでお勝ちになった」

う~ん、駒には麒麟の話をして欲しかった。(今回は「麒麟」というキーワードは登場しませんでした。それに、人の命を助ける医者・望月東庵や、弟子・駒が嫌悪せずに、「大将首を取っておめでとう」と称賛するのはちょっと違和感がありました。)

さて、その夜、稲葉山城には、帰蝶の夫・土岐頼純が来ていました。

帰蝶「何故、鎧・兜を身につけてはおいでにならぬのですか?」
・・・
帰蝶「父上、我が夫をお許し下さい」

「許せ」とは、「殺すな」って事なのでしょうけど・・・

斎藤利政「織田信秀と取引なさいましたな」

と言って、密書を見せる。(「三月前」と言ってましたが、7月16日ですから、「二月前」ですね。)

久雖不能音聞候、態令啓候。今度存種々入魂之趣祝着至極候。然間、於当国、斎藤山城守以無道之噯致、不道狼藉候儀、言語道断之至、難尽筆舌候。仍、貴様、急速所嗜武具井可、可被入当国候也。山城守被討果候上者、貴様被庶幾候通於濃州為新領思相応之地可宛行候也。弥可抽忠節事簡要候。備後守江呉々可申伝候。猶使者へ申含候間、令略候。恐々謹言。
   七月十六日 頼純(花押)
    織田与次郎殿

久しく音聞(おとぎき)能(あた)はず候と雖も、態(わざ)と啓せしめ候。今度(こんたび)種々入魂(じっこん)の趣(おもむき)存じ、祝着至極に候。然る間、当国に於ひて、斎藤山城守、無道(ぶどう)の噯(おくび)を以って致し、不道(ふどう)、狼藉候の儀、言語道断の至り、筆舌尽くし難く候。仍(よ)りて、貴様、急速所、武具以下嗜(たしな)み、当国に入らるべき候也。山城守を討ち果たされ候上は、貴様、庶幾(しょき)られ候通り、濃州に於ひて、新領と為して、思ひ相応の地を宛行(あてが)ふべき候也。弥(いよいよ)、忠節を抽(ぬ)くべき事、簡要候。備後守へ呉々申し伝へべく候。猶(なほ)使者へ申し含み候間、略しみ候。恐々謹言(きょうきょうきんげん)。

久しく噂を聞いていませんが、一筆書きます。今回、いろいろの懇意、嬉しく思っています。こうしている間、当・美濃国において、斎藤山城守利政は、無道を致し、その不道(ふどう)、狼藉は言語道断で、言い表すことが出来ない程です。ですから、あなたにおかれましては、急いで武具などを用意し、当・美濃国へお入り下さい。斎藤山城守利政を討ち果たした時には、あなたの願い通り、美濃国において、新しい領地として、思う存分の領地を与えます。いよいよ、忠節に抜きん出る(尽くす)事が肝要です。(以上のことを)織田備後守信秀へくれぐれも申し伝えて下さい。なお、詳細は、この書状を持っていく使者に伝えてあるので略します。恐れながら謹んで申し上げる。
  七月十六日 土岐頼純(花押)
    織田与次郎信康(織田備後守信秀の弟。加納口の戦いで戦死)殿

どうやってこの密書を入手したのでしょうか? 織田信秀の「夫婦の閨の事まで」知っていると言いますから、織田信康か織田信秀の屋敷から盗んだのでしょうね。尾張国へ行く途中で使者を殺して奪ったのであれば、「使者が戻ってこないということは・・・」と土岐頼純に気づかれますからね。(今回、土岐頼純は、「なぜ持ってるの?」と驚いていましたから。)

土岐頼純「美濃を飲み込まんとする蝮めが!」

斎藤利政は、茶でも飲んで落ち着くように言い、茶の湯に風流を加えようとしたのか、唄い始めました。

「〽おもしろや この宿は 縦は十五里 横は七里 
             薬師詣でその道に 梅と桜を 植え混ぜて」

歌を聞きながら抹茶を飲んだ土岐頼純は、苦しみ、倒れました。唄いながら、娘婿の遺体を見る斎藤利政――流石に、死んだかどうかを確かめるために、遺体を蹴るような事はしませんでした。歌は苦しみを和らげる挽歌でしょうか。唄いながら人を殺せるとは――マムシですね。

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