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2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』あらすじ&感想(第3回「美濃の国」)

■あらすじ

夫を亡くした帰蝶(川口春奈)は明智荘を訪ね、光秀(長谷川博己)や駒(門脇 麦)らとつかの間の気の置けないひとときを過ごし、笑顔を取り戻す。一方、道三(本木雅弘)は、より操りやすい土岐頼芸(尾美としのり)を美濃の新しい守護として擁立しようとする。内心、道三のことを嫌う頼芸は、高政(伊藤英明)に自分が実の父親であるかのようにほのめかす。


■トリセツ

土岐氏と斎藤家の関係は?
美濃国は、本来は守護である土岐氏が治める国ですが、この時代は守護代・斎藤家の名跡を継いだ道三が勢力を拡大し、美濃の実権を握っています。

「守護」と「守護代」の関係は? 美濃国の実権は?
室町時代の末期は、室町幕府が権力基盤を弱めたばかりではなく、一方では守護大名の権威も低下し、国元で勢力を強めた守護代に取って代わられるなど、下位の者と上位者が入れ代わる下剋上の時代でした。

文化人だった土岐頼芸が描く「土岐の鷹」とは?
ドラマの中で土岐頼芸が鷹の絵を描いていましたが、美濃の守護(本来は在京任務)である土岐氏は代々、文化・文芸に秀でた人物が多く、特に一族が好んで描いた鷹の絵は評価され、公家衆のあいだでも「土岐の鷹」として有名でした。文化人として知られた頼芸も多くの鷹の絵を描いていました。
番組では、一説には土岐氏の描いたものといわれる「鷹図」(所蔵:いすみ市郷土資料館)をお借りして複製し、頼芸の居室のセットに飾りました。


■大河紀行 岐阜県瑞浪市・岐阜市

岐阜県瑞浪(みずなみ)市。美濃の国の守護・土岐(とき)一族は、鎌倉時代にこの地に土着し、「土岐」を名乗ったと伝わっています。室町時代には、足利将軍家を支える武士団として活躍し、幕府と深いつながりを築きました。

土岐一族が用いた「桔梗(ききょう)紋」。土岐光衡(みつひら)が桔梗の花を兜(かぶと)に差して戦ったところ、敵を打ち破ったことにちなみ、家紋にしたと伝わっています。分家筋にあたる明智家も桔梗の紋を用いていました。

家督争いを繰り返し、衰退の一途をたどる土岐一族。頼芸(よりのり)の時代には、家中の混乱に乗じ、斎藤道三が頭角を現しました。

頼芸が築いた館の一つ、枝広館(えだひろやかた)は岐阜県岐阜市の長良(ながら)公園一帯にあったといいます。

道三に実権を奪われ、ついには美濃を追放されることとなる頼芸。土岐一族の栄光は、頼芸の代で潰(つい)えることとなるのです。


 天文16年(1547年)秋──美濃国守護・土岐頼純が守護代・斎藤利政に殺害され、時代が動き始めました。

 それから半年後の天文17年(1548年)春──第3回「美濃の国」は、明智荘での明智光秀の田起こしのシーンから始まります。昨年は、家臣・与八が野盗に肩を鉄砲で撃たれたり、藤田伝吾が「加納口の戦い」で脚を負傷したので、手伝っているようです。その慣れない姿を茶化す人が・・・美濃国の百姓・菊丸です。去年、助けてもらったお礼に味噌、餅、薬草を持ってきたそうで(遅すぎるだろ。というか、地元で田起こしせにゃアカンだろ)・・・薬草は、切り傷に効くイワソバ草と、腹痛に効く酢漿草でした。ちょうどそこへ、「鍬を洗うくらいなら手伝える」と藤田伝吾と共に駒がやって来て、薬草を見て喜びました。(菊丸は駒に一目惚れしたようです。)

 しばらくすると、稲葉山城から帰蝶がやって来ました。(この時、周囲の春の風景が冬の風景に一変する「大人の事情」を、未来にこのドラマを見た人の中には知らない人もいることでしょう。)「慣れない作業で、翁のように腰の曲がった明智光秀を見るのは一興」と思ってやって来たとのこと。最初は、訪問目的を「伯父上の怪我の見舞い」と言いました。理由がコロコロ変わるということは、それが真の目的では無いことを示しています。(明智光秀と話がしたかったのでしょう。彼の性格であれば、何を聞いても、他の人のようにお茶を濁すことなく、率直に話してくれるでしょう。)この時、明智光秀は、腰の曲がった演技をして笑わせました。明智光秀は、悪いことをしたらお尻から家に入るとか、普段からユーモアあふれる人なのかもしれませんが、今回は、夫を亡くして落ち込んでいるであろう帰蝶を慰める意味もあったのでしょう。
 この時、帰蝶が、「明智光秀の母・牧のために」と木に登って獲ったというリスを従者が逃してしまいました。木登りは出来ても、リスを捕まえられるだろうかと疑問に思います。しかも、タイワンリスは、当時の日本には生息していなかったはず(時代考証担当者さん、頑張れ!)。その時、帰蝶は、木の枝で脚を切ったといい、早速、菊丸のイワソバ草が役にたちました。
 現在、全国各地で外来種のタイワンリスが繁殖していますね。稲葉山(現在の金華山)のタイワンリスは、元々は、昭和11年(1936年)の「躍進日本大博覧会」の台湾館から集団で逃げた多数のタイワンリスが野生化したのだと言われています。(日本初のリス園「金華山リス村」(入場料200円。入場する際、革手袋と餌が渡され、餌やりなど、リスとの触れ合いを楽しめます)があります。)

 明智邸では女子会。帰蝶が「明智光秀は双六が弱く、51戦51敗だ」と自慢しました。明智光秀は、知将です。頭がいいので、帰蝶に負けるはずはありません。主君の娘なので負けてあげたのでしょう。「勝つこと」よりも難しいのは、「手を抜いたと相手に悟らせずに負けること」です。それを子供の頃から出来たとは、まさに麒麟児ですね。
 明智光秀は、くしゃみを1回しました。「1回褒められ、2回憎まれ、3回惚れられ、4回風邪ひき」(1説に「1回いい噂、2回悪い噂、3回は風邪」。「くしゃみ3回(は風邪なので)、(風邪薬の)ルル3錠」──日本大正村の村長・竹下景子さんが牧に似合うかと思いますが、石川さゆりさんの牧もいいですね)ですから2回した方が良かったのでは?(地方によっては1回がいい悪い関係なく、噂されているってことらしいですが。美濃ではどうなんだろう? ドラマでは「お風邪でございますか?」と気遣われていたので、家長の場合は、1回でもくしゃみをしたら、家人に風邪だと心配されるのでしょう。)
 さて、女子会では、帰蝶が美濃に伝わる「狐女房」の話をします。この時の声とか、話し方が、仲間由紀恵さんに似てました(と思ったのは私だけ?)。駒は、昔、聞いた話と同じだと言いました。「大きな手の人」の正体は、どうも美濃の武士のようです。(「狐女房」の話は全国各地にあっても、この歌は美濃国だけのものなのでしょう。子守唄は全国にあっても、詞や曲が異なるので、子守唄で出身地がばれるようなものです。)
 それにしても、煕子の登場が遅すぎる気がします。

 帰蝶が稲葉山城に帰ることになり、女子会は終了。帰蝶は明智光秀に「話がある」と真顔で言います。どうも明智荘へ来た本当の目的は、この話のようです。

帰蝶「夫の、土岐頼純が相果てたいきさつを存じておるか? 皆はどう思うている? それを知っておきたい」
明智光秀「それは、叔父上から聞いただけです」
帰蝶「どう聞いた?」
明智光秀「頼純様が尾張の織田信秀と密かに通じ、あの戦を起こすよう謀られた。それゆえ、殿は頼純を亡き者にされた。そう伺いました」
帰蝶「それを聞いて、どう思うた?」
明智光秀「やむを得ぬと。理由はどうあれ、守護のお立場にある頼純様が、他国の手を借り、美濃が戦に巻き込まれたのです。やむなしと」
帰蝶「分かった」
明智光秀「ただ、頼純様とお父上である殿との間に立たれた帰蝶様のお気持ちは、誰もがよく承知を致しております。母も胸が痛むと」
 個人的には帰蝶の気持ちを聞いてみたいものです。髪を落とさず、明るい色の服を着ている──普通なら出家して、暗い色の服を着ているはずです。なぜそうしない? 土岐頼純を「亡き夫」と呼ばず、「夫」と呼んでいるので、まだ死んだということが実感できていないのかな?(史実は、土岐頼純は、斎藤利政と戦って討ち死にしたとも。戦が始まると人質扱いになりますので、戦の前に離縁した可能性もありますね。また、史料には「斎藤利三の娘が土岐頼純に嫁ぎ、土岐頼純は早世した」とあるのみで、その娘が帰蝶なのか、早逝の死因は毒殺なのか、討死なのか、実は分かっていません。)

 場面変わって、斎藤利政&高政親子は、土岐頼芸のもとに向かいます。土岐頼芸は「土岐の鷹」と呼ばれる絵を描いていました。

土岐頼芸「分かるか? この苦しみが」
斎藤利政「誠に、恐れ多いことにござります」
・・・
土岐頼芸「利政、そなた頼純を殺したそうじゃなぁ」
斎藤利政「私が?頼純様を? 誰がそのような世迷いごとを申しました?」
土岐頼芸「女どもがそう申しておるぞ」
斎藤利政「はぁ(ため息)。頼純様は土岐家の大事なお世継ぎ。御殿の甥御様でもあらせられるお方、殺すなど滅相もない」
土岐頼芸「しかし、死んだ」
斎藤利政「あの戦を起こした張本人であることを恥じられ、自ら毒をあおられたのでございます」
・・・
土岐頼芸「で、今日は親子揃うて何の用じゃ」
斎藤利政「頼純様が亡くなられ、美濃から守護が消え失せました。守護は国の主(あるじ)。速やかに次の主を決めませんと、政(まつりごと)が滞ります。そのご相談に伺いましたる次第」
土岐頼芸「ほぉ? 守護がいようが、いまいが、守護代のそなたが全てを取り仕切っておるではないか。今や土岐家は、そなたの操り人形じゃと皆が申しておる。今更守護など」
斎藤利政「お嫌でございますか? 守護にお就きになるのは」
土岐頼芸「まだそなたに毒は盛られたくはない」
斎藤利政「操り人形に毒は盛りませぬ」
斎藤利政「戦で町は焼けました。田畑も荒らされました。一刻も早く元に戻さねばなりません。この利政が声をあげても、素知らぬ顔の国衆が多くいます。今は皆で力を合わせねば、美濃は立ち直れぬ。土岐様が『うん』と仰せられれば、皆が動きます。どうかお力を、お貸し下されませ」
(斎藤親子退出)
土岐頼芸、次の間に控えていた家臣に向かい、大声で叫ぶ。
「すぐに尾張に使いを出すのじゃ。織田信秀に。この美濃をあの成り上がり者から取り返すのじゃ。織田に今一度出兵を促す。手立ては選ばずじゃ」
去年に引き続き、また織田か・・・朝倉や六角じゃあダメなのか?

態令啓札候。仍昨秋、南泉寺殿、令合力尾州、引入軍勢、於当国候而、放火城下、雖尽濫妨之限候、畢竟、不討果斎藤山城候。其後、於稲葉山、南泉寺殿被相果候との風聞仕候間、難尽筆舌、寔無念至極候。然者、急度、相調武具之所々、集兵、令出陣当国、可被殺害山城守事、尤候、可為簡要候。我等濃尾逐一和与弾正令相通候事最上位事候。委細者此使者可申伝候間不能詳細候 恐々謹言
     土岐美濃守
        頼芸(花押)
  織田弾正忠殿

態(わざ)と啓札せしめ候。昨秋仍(よ)り、南泉寺殿、尾州に合力せしめ、軍勢を引き入れ、当国に於ひて候て、城下に火を放ち、濫妨の限りを尽くし候と雖も、畢竟(ひっきょう)、斎藤山城を討ち果たさず候。其の後、稲葉山に於ひて、南泉寺殿、相果てられ候との風聞仕り候間、筆舌に尽くし難く、寔(まこと)に無念至極に候。然らば、急度、武具の所々を相調(ととの)へ、兵を集め、当国へ出陣せしめ、山城守を殺害せらるべき事、尤に候。簡要たるべき候。我等濃尾、逐一和与(わよ)、弾正と相通じせしむ候事、最上位の事に候。委細は、此の使者に申し伝へべき候間、詳細あたはず候。恐々謹言(きょうきょうきんげん)。
     土岐美濃守
        頼芸(花押)
  織田弾正忠殿

 一通書きます。昨秋から(普通は「仍」ではなく「自」「従」)、南泉寺殿(土岐頼純、南泉寺殿玉岑玄珪居士)は、尾張に協力して、尾張軍を美濃国に引き入れ、当・美濃国において、稲葉山城の城下(加納)に火を放ち、乱暴・強奪の限りを尽くしたが、結局、斎藤山城守利政を討ち果たすことができなかった。その後、稲葉山城で、南泉寺殿(土岐頼純)が亡くなられたと聞き、筆舌に尽くし難く、誠に無念至極である。こうなれば、すぐに、武具等を用意し、兵を集め、当・美濃国へ出陣し、斎藤山城守利政を殺害するのがもっともである。肝要である。我ら美濃と尾張は、完全に和解し、織田弾正忠信秀と通じることが最も大事である。詳細は、この書状を持っていく使者に申し伝えてあるので、詳細は書かない。恐れながら謹んで申し上げる。
     土岐美濃守
        頼芸(花押)
  織田弾正忠信秀殿

疑問①日付がない。(前回の土岐頼純書状には月日があった。)
疑問②署名した書状に「殺害」って書く? 「殺害」は使者に言わせるのでは? 前回、美濃国守護・土岐頼純が守護代・斎藤利政に殺害されたのは、「書状」という証拠があったからです。この書状が斎藤利政に奪われたら、土岐頼芸は殺されますよ?

 ──我が子と思うて頼りにしておるぞ。(by 土岐頼芸 to 斎藤高政)

この斎藤高政の心に疑念を呼んだ一言は、「マムシの毒返し」。さしづめ「鷹の爪」とでも。傷口が膿んでくる・・・。土岐頼芸が真に頼りにしていたのは、斎藤高政ではなく、織田信秀ですが、この一言がきっかけで、斎藤高政は斎藤利政を討つのですから、言ってみるものですね。(斎藤高政は、実父について母・深芳野に尋ねますが・・・この母親、なんか娼婦っぽい。息子の前でも、様子を見に来た斎藤利政の前でいちゃつくし・・・最後の斎藤利政の「おお」という声は、画面外でツボでも突かれたのでしょうか?)

 さて、出兵を頼まれた織田信秀は、昨年の大敗北が頭にあって渋っているのですが、そんな事を考える余地が無くなります。今川軍が攻めてきたのです!!!

 さて、さて、場面変わって斎藤高政は、明智光秀に鉄砲を渡します。親子揃ってメカには弱いようです。前回の「半額返せ」という斎藤利政の言葉は、「こんな得体の知れない木の筒1本に・・・高い買い物をしてしまった」という気持ちから出たのでしょう。

裏山へ鉄砲の試射を見に行く間、政治について語ります。若者武者っぽい!
斎藤高政「時が経つのは早い。お主と、寺で机を並べて、経典や兵法を学んだのは何年前だ?」
明智光秀「10年前だ」
斎藤高政「うむ。今日まであっという間だった。これから10年先も、あっという間だぞ」
明智光秀「だから何だ?」
斎藤高政「その時まで、父上があの城の城主でいるかどうか分からんぞ。父上は、戦には強いが、国の政は手抜かりが多い。先年の洪水であちこちの田畑が荒れ果てた。川から水を引く治水も、村同士の水の奪い合いで、どこもギクシャクしている。そういうことに上手く手を打てていない。戦に勝って、領地を守れば、それで国が治まるわけではないのだ。国を治めるためには、土地、土地に古くから根ざした国衆の力が欠かせぬ。父上は、そういう者たちを力でねじ伏せてきた。いざとなると、そういう者たちは動かない。去年の戦がいい例だ。はっきり言うが、父上には先がない。どうだ、そうは思わぬか?」
明智光秀「若君からそういう話を聞くとはな」
斎藤高政「お主だから、こういう話をするのだ」
明智光秀「確かにこの国はまとまりが無い。古い国衆が、それぞれ己の領地のことばかり考えている。昔は土岐家が鶴の一声で皆をまとめたという。その代わりを殿が果たしているとは、到底思えん」
斎藤高政「土岐頼芸様はな、既に父上を見限っておられる。あてにしているのはわしだと、そう仰せられた。わしは、土岐様のそのお気持ちに乗ろうと思う。父上に代わって国を支える。そう遠くない先に、そうしたいと思う。わしがそなたに言いたいのは、その折には力になってもらいたいということだ。共にこの国を治めて欲しい。幼い頃から友と思うてきた。立場は違うが、一番近くにいると思うてきた。お主の知恵をわしに分けてくれ。どうすれば、この国をまとめてゆけるか。どうだ? 嫌か?」
明智光秀「嫌ではない。そう思うてくれるのはありがたい。その話、然と承った」
斎藤高政「うむ」
明智光秀「ただし、美濃をどう変えれば良い国になるのか、お主と話し合わなければならない。全てはそれからだ。どうすれば良い国に、麒麟がくる国に」
斎藤高政「麒麟?」
明智光秀「そうだ。麒麟がくる国だ」

おいおい斎藤高政さん、「麒麟」は、あなたが6年間かけて読んだ「四書五経」の『春秋』に出てくるぞ! 忘れたんか?(明智光秀も、駒から「麒麟」と聞いて「?」でしたけどね。)

 斎藤高政は実際に鉄砲を撃つ場面を見て、鉄砲の能力に驚いていましたが、そうなの? 去年、織田信秀が美濃へ侵攻してきた時、織田信秀が多くの鉄砲を使って、多くの美濃衆が殺されたシーンは見てないの?
 それにしても、練習する事もなく、水筒(瓢箪)に命中させる明智光秀は凄い! 山崎合戦でも瓢箪(豊臣秀吉)を討てたらよかったのにね。(山崎合戦の敗因は、雨で鉄砲が使えなかったことだとか。)鉄砲を撃ちながらの国家談義は、織田信長の「天下布武」に繋がる気がします。まぁ、これは「深読み」でしょうけど、この鉄砲の試射をした稲葉山は、豊臣秀吉の馬印・瓢箪(1勝することに1個増やしていったら1000個になったので「千成瓢箪」といいます)発祥の地で、案内板もあります。

「 木下藤吉郎と千成瓢箪
 永禄10年(1567)8月14日、木下藤吉郎(のちに羽柴秀吉、豊臣秀吉と改称)は蜂須賀小六や山麓の猟師堀尾茂助など僅か七名を従えて、岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えられている。この時、藤吉郎は城兵を倒した鎗先に腰から下げていた瓢箪を結び付け、鎗を振り回しながら大音声で勝鬨をあげたという。以来、千成瓢箪発祥の地とされている。  岐阜市」(現地案内板)

 そういえば、駒の明智光秀を見る目が変わってきましたね。菊丸が駒の心を代弁していましたが、これは「恋心」ですね。このドラマの明智光秀は、20歳の若者で、妻も子もいない設定になっています。一夫多妻制の戦国時代とはいえ、明智光秀が妻帯者であれば、駒は恋心を持たなかったかもしれません。それで、煕子の登場が遅れているのでしょう。

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