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早すぎた織田信光の死で得した織田信長

マムシの娘・帰蝶の誘いで清須城主・織田信友と碁をうつことを決意し、
見事、守護代・織田信友を討ち果たすも、早死した織田信光の話──。

1.『信長記』


太田牛一が書いた『信長記』を『信長公記』と便宜上呼ぶ。
織田信光の死については首巻に載っており、自筆本は存在しない。
・陽明本 我自刊我書、角川文庫
・町田本 『史籍集覧』
・天理本 『愛知県史』

小瀬甫庵が書いた『信長記』を『甫庵信長記』と便宜上呼ぶ。
・日本歴史文庫
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771443

(1)陽明本『信長公記』
(前略)其の年の霜月廿六日、不慮の仕合せ出来して、孫三郎殿御遷化。忽ち誓紙の御罰。天道恐ろしき哉と、申らし候へき。併、上総介政御果報の故なり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781192/12

(2)町田本『信長公記』
(前略)其の年の霜月廿六日、不慮の仕合せ出来して、孫三郎殿御遷化。忽ち誓紙の御罰。天道恐ろしきかなと、申しならし候へき。併、上総介殿御果報の故なり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/71

(3)天理本『信長公記』
 清洲の城、守護代・織田彦五郎とて惣領これあり。坂井大膳は小守護代なり。坂井甚介、河尻左馬丞、織田三位、歴々討死に候て、坂井大膳1人しては抱えがたきの間、此の上は織田孫三郎殿を頼み入るの間、「力を御添へ候て、彦五郎殿と孫三郎、両守護代に御成り候へ」と、懇望申され候のところ、「合点にて、坂井大膳、好みの如く、表裏あるまじき」の旨、七枚起請を書き、大膳方へつかはされ、相調へ候て、4月19日、孫三郎、清洲の城南矢蔵へ御移り候。表向は此の如くにて、内心は信長と仰せ談ぜられ、清洲を宥め、取り進めらるべきの間、「左候は、河西は信長御進退、河東は孫三郎まゝたるべき」との御約諾の抜公事なり。此の孫三郎と申すは、信長の伯父にて候。河東も2郡、河西も2郡の事に候。
 4月20日、「坂井大膳、南矢倉へ御礼に参り候はゞ、御生害なさるべし」と、相待たるゝのところ、城中迄参り、冷しき様子(けしき)を見候て、逃げ去る。直ちに駿河へ罷り越し、今川義元を頼み、在国なり。守護代・織田彦五郎、坂井蔵人、推し寄せ、腹をきらせ、清洲の城、存分に任せられ、上総介信長へ渡し進められ、孫三郎殿は、那古野の城、御請け取りなり。年月を経ず、其の年の霜月26日、不慮の仕合せ出来候て、小性立の坂井孫八郎と申す者云為(しわざ)にて、奉弑(ころし)、「誓紙の御罰、天道恐ろしき哉」と申し鳴(なら)し候き。併、上総介信長、御果報の故なり。

【大意】 清須城には、守護代・織田信友と小守護代・坂井大膳(今川家の目付家老)がいた。「仲間が少ない」として、坂井大膳は、守山城主・織田信光を誘った。織田信光は承知して「書いた約束を破ると死ぬ」とされる「七枚起請」(起請文(誓約書)7枚)を提出した。しかし、実は、織田信光は、織田信長と内通しており、守護代・織田信友を殺し、織田信友が領する尾張半国(下4郡)を、庄内川を境に東西2郡に分けて領する約束をしていたのである。
 天文24年(1555年)4月20日、織田信光は、守護代・織田信友と小守護代・坂井大膳を殺そうと清須城に入った。織田信友は討てたが、坂井大膳は危険を察知して、駿府に逃げたという。清須城には織田信長が入り、織田信友には那古野城が与えられた。
 7ヶ月後の弘治元年(1555年。10月23日、改元)11月26日、織田信友は、那古野城で家臣(小姓上がりの坂井孫八郎)に討たれた。「七枚起請に背いたから」とも、「主君・織田信友を討ったから」とも言われた。

(4)『甫庵信長記』「信長、清洲城に移り給ふ事」
 斯かる所に、孫三郎殿は、不慮に同11月26日夜に入りて、近習の坂井孫八郎といふ者、弑し申しけり。其れを如何にと尋るに、彼の北の方、内々、孫八郎と心を通はしけるに、其の事、洩れ聞こえしかば、彼の妻と心を合はせて殺しけるとぞ聞こえし。坂井大膳と約変あるべからざる旨、堅く契約せしが、其の甲斐もなく、清洲の城を方便(たばか)り取りければ、『起請文の罸』といひならはしける。又、『一家の総領を、情けなく討ち給へる罸にて候べき』と申す人も多かりけり。
 孫八郎は、翌日、熱田の田島肥後守といふ者の所へ落ちたりしを、方便り呼び寄せ、佐々孫助、角田石見守、小瀬三右衛門尉、彼等6人して討つべきとの事なりしに、『彼は用心厳しうしてければ、方便りて、討つべし』とて、矢島と孫助と空喧嘩を仕出して、矢島、彼の孫八郎をぞ討つたりける。其の頃は、『したりや、矢島6人衆』とぞ、片言いふなる嬰児までも、口ずさみにしたりける。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544599/32
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771443/42

【大意】 織田信光の近習・坂井孫八郎は、織田信光の妻・守山(森山)御前との密通がばれたので、織田信光を那古屋城内で殺した。織田信長は、討伐隊「矢島6人衆」(矢島四郎右衛門尉、佐々孫助勝重、角田石見守、小瀬三右衛門、赤川三郎右衛門尉、土肥孫左衛門尉)をすぐに派遣し、坂井孫八郎を討った。「してやったり、矢島6人衆」と子供までもが囃し立てた。

疑問①:坂井孫八郎が織田信光を殺したのは密通がばれたから? 坂井孫八郎は坂井大膳の縁者で敵討ちをした?
疑問②:織田信長の陰謀? 織田信光が死んで最も得をしたのは織田信長である。織田信光に渡した2郡を引き取って4郡を領したからである。織田信長が坂井孫八郎に暗殺を依頼して口封じをしたのか、坂井孫八郎の密通の噂を流して、坂井孫八郎が織田信光を討たざるを得ない状況を作ったのか?
※「矢島六人衆」というからには、矢島四郎右衛門尉がリーダーなのであろうが、私は佐々孫助勝重を推したい。というのも、織田信秀と今川義元の戦いで活躍した武将を「小豆坂七本槍」というが、そのメンバーは、
織田信光(1516-1556 那古屋城内で坂井孫八郎に討たれる。)
佐々孫介勝重(?-1556 「稲生の戦い」で討死)
・佐々政次(勝通)(?-1560 「桶狭間の戦い」で影武者となり討死)
・織田信房(?-1560? 「桶狭間の戦い」で討死?)
・岡田重能(重善)(1527-1583 小瀬甫庵の親友)
・中野一安(重吉)(1526-1598 田島在住)
・下方貞清(匡範)(?-1606)
であり、佐々孫助勝重と織田信光は旧知の仲であるからだ。岡田重能は、小瀬甫庵の親友で、各合戦の状況を詳細に教え、小瀬甫庵の執筆活動を支えたという。岡田重能が「矢島六人衆」に入っていれば、『甫庵信長記』の記述も変わったかもしれない。

(5)小和田哲男『詳細図説 信長記』(新人物往来社)

 さて、その年の11月26日、信長の叔父であり、清洲の織田信友を攻め滅ぼすのに最大の功労者であった織田信光が、その居城である那古野城で死ぬという事件がもちあがった(『享禄以来年代記』)。その死に方が尋常でなかったことは、諸記録に「不慮の死」と書かれていることからも、おおよその察しがつく。『信長公記』も、「不慮の仕合(しあわせ)出来(しゅったい)して、孫三郎殿御遷化。忽ち誓紙の御罰、天道恐哉(おそろしきかな)と、申しならし候キ。併(しかしながら)、上総介殿御果報の故なり」と記し、死因については全くふれていない。
 孫三郎殿とは信光、上総介殿とは信長のことであり、死因が故意にぼかされている点は気になるところである。
 信長の尾張統一にあたって、叔父である信光が、しだいに邪魔になってきたことは確かで、信光は家臣の坂井孫八郎に殺されたということになってはいるが、裏で信長があやつっていた公算が大である。

※裏で信長があやつっていた公算が大:ドラマ的には、「裏で帰蝶があやつっていた公算が大」かな。

2.大日本史料

大日本史料には、織田信光に関する史料が集められていますが、ほとんどの史料の底本は太田牛一『信長記』関連ですね。よく、
「明智光秀の前半生は不明だが、織田信長の前半生は明瞭」
と言いますが、太田牛一が『信長記』を書いたから織田信長の前半生が明瞭なのであって、太田牛一が『信長記』を書かなかったら、明智光秀同様、織田信長の前半生は不明だと思われます。

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